2月26日1770年【A.レイハ】

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アントニーン・レイハ
Antonín Rejcha

[作曲家/チェコ・フランス]
1770年2月26日 – 1836年5月28日 66歳没
19世紀初頭のヨーロッパにおいて、理論・教育面で大きな影響力を持ち、パリ音楽院の作曲科教授として、F.リスト(1811-1886)、E.ベルリオーズ(1803-1869)、C.グノー(1818-1893)、S.フランク(1822-1890)らを育てた。
24曲の木管五重奏曲をはじめとする管楽器のための作品を多数残し、この分野での開拓者となった。
ベートーヴェンとは同年生まれで、友人でもある。

木管五重奏曲 Op.88(1817年)

生涯

1770年 チェコのプラハ生まれる。生後間もなく学士だった父が亡くなる。
1780年10歳 孤児となり、ドイツでチェロ奏者で作曲家でもあった叔父ヨーゼフ・レイハに引き取られ、ニュルンベルク近郊ヴァッラーシュタインに移住。ここで叔父から、ドイツ語、フランス語、ヴァイオリン、フルート、鍵盤楽器の指導を受ける。
1784年14歳 叔父がケルン選帝侯宮廷楽団の楽長として招聘され、叔父に伴ってボンへ移住。宮廷楽団員(フルートとヴァイオリン)となる。
同じ楽団でヴィオラ奏者だったベートーヴェン(1770-1827)との交流が始まる。
1789年19歳 ベートーヴェンとともにボン大学に入学。カント哲学、物理、代数学を学び、理論家としての素地となった。この頃F.J.ハイドン(1732-1809)と知り合う。
1794年24歳 フランス革命軍によってボンが占領され、宮廷楽団は解体されヨーロッパ各地を放浪する。
ハンブルク、パリなどを巡る中で、国際的名声を博していた作曲家L.ケルビーニ(1760-1842)と親交を結んだ。
ハンブルクに移り、ピアノ及び作曲・音楽理論の教師となる。
1801年21歳 ウイーンに移り、ベートーヴェンと共にF.J.ハイドンを訪ね再会する。
ベートーヴェンと同じく、A.サリエリ(1750-1825)に師事。(ハイドンに師事したという説もある)マンハイム楽派やグルック、モーツァルトなどの影響を受ける。
『ピアノのための36のフーガ Op.36』『変奏技法』一連の弦楽五重奏曲、『死者のためのミサ』、カンタータ『レノーレ』など作曲。

『交響曲 Op.41』 (1803)

作品の演奏や故郷の母を訪ねるため、ライプツィヒ、プラハなどを旅行する。この頃のヨーロッパの情勢はナポレオン戦争のために不安定でウィーンに落ち着くことは出来なかった。
1808年38歳 ウィーンを後にし、再びパリへ移住。各地を転々とした半生だったが、以後パリに定住し、プライベート・レッスンや作曲、理論書の執筆を中心に生活した。
1817年47歳 パリ音楽院の作曲科の教授に就き、F.リスト(1811-1886)、E.ベルリオーズ(1803-1869)、C.グノー(1818-1893)、C.フランク(1822-1890)らを育てた。教科書は彼の著書『作曲講義Cours de composition musicale』を使用し、既存の原理原則に捉われない斬新なもので、パリの革新派に影響を与えた。
1824年ごろ発表した『高等作曲理論』はその革新性が大きな議論を呼び、パリ音楽院をケルビーニ率いる保守派と、レイハの革新派に二分した。こうした著作はC.ツェルニー(1791-1857)が翻訳し、世界各地で出版された。R.シューマン(1810-1856)やスメタナ(1824-1884)もツェルニー翻訳版を持っていた。

『ピアノのための36のフーガ Op.36』

1826年56歳 作曲の筆を置く。
1829年59歳 フランス国籍を取得。
1831年61歳 レジオン ドヌール・シェヴァリエ章受勲。
1835年65歳 アカデミー会員に選出。このころから体調を崩す。
1835年には美術芸術アカデミー会員になっている。
1836年5月28日66歳 パリで亡くなる。

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