10月22日1811年【F.リスト】

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フランツ・リスト
Franz Liszt
Liszt Ferenc

[ 作曲家 / ハンガリー ]
1811年10月22日-1886年7月31日 74歳没
生前は、「ピアノの魔術師」を呼ばれるほどの超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで、サロンで絶大な人気を誇る大スターでした。
多くの女性と浮名を流し、聖職につきながら不倫をしていたこともよく知られています。
作曲家としては、ベルリオーズ(1803-1869)が提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナー(1813-1883)らとともに新ドイツ派と呼ばれる、音楽史上重要な作曲家


Liszt: The Piano Collection

 

『ラ・カンパネラ』(1851)
ピアノ:E.キーシン(1971‐)

生涯

1811年 オーストリア帝国領内ハンガリー王国ドボルヤーン(現在のオーストリア・ライディング)に、オーストリア系ハンガリー人でチェロやヴァイオリン奏者としても活躍した父と、オーストリア人の母のもとに生まれた。

1822年11歳でこの生地を離れて以降、ウィーン、パリ、ヴァイマール、ローマに居住し、ハンガリーに定住することはなかった。家庭内ではドイツ語が使われ、ハンガリー語を終生全く学ぶことはなかったが、リスト自身ハンガリー人と自称し、誇りとしており、ハンガリーにおいて「国民的英雄」とされている。

J.ハイドン(1732-1809)やJ.フンメル(1778-1883)とも知り合いだった父はリストの才能を見出し、6歳よりピアノを習わせた。
1821年10歳 公開演奏会に出演。
1822年11歳 両親とともにウィ―ンに移り、ウィーン音楽院でベートーヴェンの弟子C.チェルニー(1791-1857)とA.サリエリ(1750-1825)に師事。J. S. バッハ(1685-1750)からベートーヴェンに至るまでの幅広いレパートリーを習得し、またサリエリから通奏低音、スコア・リーディング、そして作曲を学んだ。
1823年12歳 一家は、モーツアルト親子のごとく、ミュンヘン、アウクスブルク、シュトゥットガルト、ストラスブルクなどの各都市で演奏会を行いながらパリを目指し、同年4月13日にウィーンでのコンサートで、52歳のベートーヴェン(1770-1827)に会い、賞賛された。
パリでは、パリ音楽院入学を希望したが、院長であるケルビーニ(1760-1842)の外国人には門戸を開かないとの方針により入学が認められず、パエールとライヒャにピアノを師事することとなった。

この頃、ピアノ製造業者のエラールから7オクターヴの最新式ピアノを贈呈され「コンサート・ツアーでエラールのピアノを使用し、楽器の運送費はエラール社が負担する」という契約を結び、1824年から4年間、イングランド、フランス、そしてスイスを巡る演奏旅行を行う。
1824年13歳『ディアベッリのワルツにもとづく変奏曲』が出版され作曲家デビュー。また同年10月17日、パリのオペラ座で、彼が完成させた唯一のオペラである『ドン・サンシュ』が上演された。
1827年8月15歳 父が死去し、ピアノ教師として家計を支えることになる。
1831年19歳 N.パガニーニ(1782-1840)の初めて聴いた演奏に感銘を受け、超絶技巧を目指し毎日4~5時間の練習をするようになる。またベルリオーズ(1803-1869)、ショパン、シューマンらと親交をもち、音楽的影響を受けた。

1830年代のヨーロッパでは、毎年のように改善された最新型の楽器が発売され、ピアノ産業が拡大し、家庭への普及が急速に進んだ。
リストは、詩人、作家、画家、音楽家など一流芸術家たちが集うパリのサロンに出入りするようになり、女性ファンの失神が続出するほどアイドルのようなピアニストで、多くの女性と恋愛関係となった。

 

1832年21歳 7歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人(1805-76)に出会う。
1835年24歳 ダグー夫人とスイスへ逃避行の後、1844年まで同棲生活を送る。2人の間にはブランディーン(1835-62)、コジマ(1837-1930)、ダニエル(1839-59)の3人の子供が生まれた。ダグー夫人は1835年に伯爵と離婚したが、リストと再婚することはなかった。
コジマは後に指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)と結婚し、その後ワーグナー(1813-1883)と再婚した。

1836年6月24歳 この時代、ベートーヴェンの後期作品は難解であるために公開の場で演奏されることはほとんどなく、演奏不可能といわれていた『ピアノソナタOp.106《ハンマークラヴィーア》』をパリで演奏する。
「我々音楽家にとって、ベートーヴェンの作品は荒地からイスラエルの民を導く雲の柱や火柱のような存在です。昼は我々を先導する雲の柱、そして夜は我々に光を与える火柱、それによって我々は常に先へと進むことができるのです。その暗さと輝きが等しく、我々が辿るべき道しるべとなるのです。それら各々が永続的な戒律であり、不可謬な啓示なのです」と、1852年12月2日付ヴィルヘルム・フォン・レンツ宛の書簡に記している。

1835年24歳 ダグー夫人とともに滞在したジュネーヴで、後の『巡礼の年 第1年 スイス』の初稿を仕上げる。
1837年26歳 ジョルジュ・サンド(1804-76)のノアンの別荘に3ヶ月滞在し、ベートーヴェンの交響曲第5-7番やF.シューベルト(1797-1828)の歌曲のピアノ2手用編曲を完成させ、その楽譜はヨーロッパで人気となった。
その後リストと夫人はイタリアに向かい、後の『巡礼の年 第2年 イタリア』『死の舞踏』など重要な作品の初稿を仕上げる。

『巡礼の年 第2年 イタリア』より「ペトラルカのソネット104」
ピアノ:V.ホロヴィッツ(1903–1989)

1839-47年の間に、西はイベリア半島、東はモスクワ、そしてアイルランド、イギリスからトルコまで、週に3~4回のペースで合計1000回以上もの演奏会を行い、サンクト・ペテルブルクでは3000人以上の聴衆を集めた。
これらの演奏会において、全てのプログラムを暗譜で演奏することや、バロック時代から現代曲まで幅広いレパートリーのプログラムを組むこと、舞台上でのピアノの位置や、音響効果のためにピアノの蓋を開けて演奏するなど、現代のピアノリサイタルの原型を作った。

1844年33歳 マリー・ダグーと別れ、1847年演奏旅行中のキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人(1819-87)と出会い同棲する。
1847年36歳 オデッサにおける演奏会を最後に、ピアニストとしての活動に終止符を打ち作曲活動に専念。
1848年2月36歳 ヴァイマールの宮廷楽長に就任(-1861)。

宮廷楽長として、正当な評価を得られずにいたベルリオーズ( 1803-1869)、ワーグナーの最大の理解者として両者の作品を積極的に取り上げていった。
1849年2月 ワーグナー『タンホイザー』、1850年8月『ローエングリン』をそれぞれ初演し、ヨーロッパ中の注目を集めた。フランス語やドイツ語でワーグナー作品についてエッセーを書いたり、ピアノへの編曲や楽譜出版などでも支援した。
また、ベルリオーズについても「ベルリオーズ週間」と題した音楽祭を催した。

交響詩『前奏曲』
ティーレマン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

宮廷楽長としての活動のほか、ドイツ各地で開かれた音楽祭の監督やゲスト指揮者として積極的な活動と、12曲の交響詩や2曲の標題交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ・ソナタロ短調、『グラン・ミサ曲』などの大作、『超絶技巧練習曲』、『パガニーニ練習曲』、『ハンガリー狂詩曲』、『巡礼の年 第1年、第2年』、『詩的で宗教的な調べ』など数多くの作品を生みだした。

 

1859年48歳 ヴァイマール宮廷楽長を辞任
1861年50歳 ローマに移住し、教会音楽創作と宗教生活に集中し、1865年5月54歳の時に下級聖職者の位を授かる。
1867年56歳 「マスタークラス」と呼ばれるピアノ・レッスンを始める。
あらゆるレッスンは無償で行われ、ローゼンタール(1862-1946)、ザウアー(1862-1942)、ジローティ(1863-1945)、ダルベール(1864-1932)など、世界で活躍することになる一流ピアニストたちが集まった。
ある日、まだ無名であったグリーグ(1843-1907)が訪ねてきて、完成したばかりの『ピアノ協奏曲イ短調』の手稿譜をリストは初見で完璧に弾きこなし、彼を称賛したといわれる。
1875年11月64歳 ハンガリー王立音楽院(現リスト音楽院)の初代院長に就任。

1870年代になると、作品から次第に調性感が希薄になっていき、1877年発表された『エステ荘の噴水』は、C.ドビュッシー(1862-1918)『水の反映』やM.ラヴェル(1875-1937)『水の戯れ』に多大な影響を与えた。

『エステ荘の噴水』
ピアノ:クラウディオ・アラウ(1903-1991)

1885年74歳 小品『無調のバガテル』を作曲するなど、晩年になっても積極的な作曲活動を行い、ピアノ小品の多くに、半音階法、増三和音、曖昧な調性、不協和音などの実験的傾向がみられる。

『無調のバガテル』

70歳を超えても、ヨーロッパの各地に赴き、1886年74歳の春にはロンドンを訪問し、ヴィクトリア女王に謁見した。
パリ経由でヴァイマールに戻り、2か月後にはルクセンブルクを訪れ、7月19日には生涯最後となるピアノ演奏を披露。その夜、夜行列車でバイロイトへと移動し、7月23日ヴァーグナー亡き後、コジマが取り仕切っていた祝祭劇場で『パルジファル』、25日には『トリスタンとイゾルデ』のバイロイト初演を聴き、同月31日、永遠の眠りについた。


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