12月10日1822年【C.フランク】

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セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク
César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck

[作曲家/オルガニスト]
1822年12月10日 – 1890年11月8日 67歳没
ベルギー出身、フランスで活躍した作曲家、オルガニスト。
代表曲は『交響曲 ニ短調』、ヴァイオリン作品の最高傑作とも言われる『ヴァイオリンソナタ』、ピアノ曲『前奏曲、コラールとフーガ』など。


セザール・フランク(23CD)

 

『ヴァイオリンソナタ FWV8 Sonata Pour Piano et Violon en La majeur』(1886年)
ヴァイオリン:ルノー・カプソン(1976-)
ピアノ:K.ブニアティシヴィリ(1987-)

生涯

1822年 ネーデルラント連合王国のリエージュに生まれる。
弟ジョゼフ(1825-1891)共に、幼い頃から音楽の才能をあらわし、当事の神童を騒ぎ立てもてはやす風潮により、父は彼らをリストのような大ピアニストにすべく英才教育を行った。
リエージュ王立音楽院でソルフェージュ、ピアノ、オルガン、和声学を学ぶ。
1834年12歳 音楽院を卒業。初めてのコンサートを開き、建国間もないベルギー王国の国王レオポルド1世も臨席した。
1835年13歳 父が息子たちの更なる名声を求めて、一家でパリへ移住。
1837年15歳 パリ音楽院で学ぶことを望んだが、国外の学生を受け入れていなかったためフランスに帰化し、10月に弟ジョゼフと共にパリ音楽院入学。音楽院では作曲、ピアノ、オルガンなどを学び、様々な賞を総なめにするような神童ぶりを見せた
1842年20歳 音楽院を自主退学し帰郷。父の商業的な息子の売り出し方が、パリにおいて批判や反感を買うようになったことが理由とされ、こうした両親からの干渉が、フランクの豊かな才能を開花させるのを遅らせたとも言われる。

1844年22歳 再びパリに戻る。父は彼を演奏家として育てたい思惑があったが、フランクは作曲家を希望し、作曲活動を開始する。生活のためにピアノ教師や伴奏者としても活動した。
1846年24歳 父親の過干渉を逃れ恋人フェリシテの実家へ転がり込み、二度と実家に戻ることなく、1848年2月フェリシテと結婚。父と決別し、ようやく自立した。
1847年25歳 ノートル=ダム=ド=ロレット教会のオルガニスト補佐となる。また、フランス国内を広く旅してオルガン製造者のアリスティド・カヴァイエ=コルが設置したオルガンを紹介した。
作曲家としてはオラトリオや宗教音楽を多く発表し、リストやショパンに評価されたが、世間の評判はあまり良くなかった。

1858年36歳 サント・クロチルド聖堂のオルガニストに就任し、生涯にわたりその職にあった。

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サント・クロチルド聖堂パイプオルガン

これを機に創作活動を充実させるようになり、作曲家としてまたオルガニストとして即興演奏の名手として、名声を得るようになる。

『3声のミサ曲 Op.12』より『天使の糧』Panis angelicus』(1859)
メゾソプラノ:E.ガランチャ(1976‐)

1862年40歳 オルガニストを務めるサント・クロチルド聖堂には、1859年にカヴァイエ=コル(1811-1899)製作の最新鋭のパイプオルガンが設置されたばかりで、その豊かな音色にインスピレーションを得て、オルガンのための『6曲集』を作曲。フランスのオルガン芸術史における初めての傑作とも言われ、曲集中のアルカン( 1813-1888)に献呈された『交響的大曲 Op.17』とサン=サーンス(1835-1921)に献呈された『前奏曲、フーガと変奏曲 Op.18』はフランクのオルガン作品の中で最もよく知られている。

『前奏曲、フーガと変奏曲』(1862年)

1866年4月43歳 日曜ミサにおいて、フランクの即興演奏を聴いたF.リスト(1811-1886)は、翌月にフランクのオルガン作品を紹介する演奏会を企画。成功をおさめフランクは世間に認められるようになる。
1871年49歳 若い音楽家育成のために、サン=サーンス(1835-1921)、フォーレ(1845-1924)とともにフランス国民音楽協会を創立し、初代会長となる。
1873年51歳 パリ音楽院オルガン科の教授に就き、経済的に安定した生活を送るようになる。多くの弟子に慕われ、V.ダンディ(1851–1931)、E.ショーソン(1855-1899)、L.ヴィエルヌ(1870–1937)、H.デュパルク(1848–1933)など優秀な音楽家を輩出した。

1879年57歳から1890年に亡くなるまでのおよそ10年間は、それまでの鳴かず飛ばずの数十年を取り戻すかのように、次々に傑作を発表し「傑作の森」ともいえる時期である。
1886年64歳 E.イザイ(1858-1931)の結婚祝いとして『ヴァイオリンソナタ』作曲。同年12月16日にイザイによりブリュッセルで行われた初演は大成功をおさめ、フランス系のヴァイオリンソナタの最高傑作といわれるようになる。

1887年65歳『前奏曲、アリアと終曲』作曲。A.コルトー(1877-1962)は「ピアノ音楽的ではなくあたかもオルガン曲もしくは弦楽合奏曲であるかのように響く」という語っている。

『前奏曲、アリアと終曲 Prelude, Aria, et Final』
ピアノ:A.コルトー

1888年66歳 唯一の交響曲を作曲。翌年の初演での評価は芳しくなかったが、現在は高い評価を得ている。

 

『交響曲 ニ短調』
指揮:T.ソヒエフ(1977‐)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1890年7月67歳 乗車していた辻馬車が馬引きの列車と衝突事故を起こし、頭に損傷を受けた。後遺症により演奏会や音楽院での講義ができなくなり、悪化する体調の中でオルガン曲『3つのコラール Trois chorals』を作曲。完成させた最後の作品となった。

『3つのコラール』第3曲

1890年11月18日 呼吸器感染により67歳でこの世を去る。長年オルガニストを務めたサント・クロチルド聖堂で葬送ミサが行われ、パリのモンパルナス墓地に眠る。

『前奏曲、コラールとフーガ』(1884年)

 

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