3月31日1732年【J.ハイドン】

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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
Franz Joseph Haydn

[作曲家/オーストリア]
1732年3月31日-1809年5月31日 77歳没
「交響曲の父」と呼ばれる、古典派を代表するオーストリアの作曲家。
106曲の交響曲のほか、ほぼ全てのジャンルに作品を残し、総数は1000曲に及ぶとされる。
ドイツ国家の作曲者。


ハイドン

びっくりシンフォニー(交響曲第94番)第2楽章

生涯

1732年3月31日 当時ハンガリー王国領との国境に位置したニーダーエスターライヒ州(当時下オーストリア大公国)ローラウ村に生まれる。
1738年6歳 ハインブルクの音楽学校の校長をしていた叔父マティアス・フランクに音楽の才能を認められ、彼のもとで音楽の勉強を始める。
1740年8歳 ウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイターに認められ、ウィーンに移住しサン・シュテファン大聖堂の少年合唱隊員となる。
1749年17歳 変声期を迎え同聖歌隊を解雇される。
このころから作曲を本格的に勉強し、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)から大きな影響を受けた。現存する最初のミサ曲『ミサ・ブレヴィス ヘ長調Hob. XXII:1』を作曲。
1759年27歳 モルツィン伯爵家の楽長に就任。
1750年後半、約15曲の交響曲、鍵盤楽器のためのソナタや三重奏曲、ディヴェルティメント、協奏曲、弦楽三重奏曲、管楽器のためのパルティータなど多くの作品を作曲。
1760年11月26日28歳 マリア・アンナ・ケラーと結婚。子供ができず、アンナが1800年に亡くなる最後の10年間は別居状態だった。
1761年5月29歳 ハンガリー有数の大貴族エステルハージ侯爵家副楽長に就任。副楽長時代に三部作(第6番『朝』、第7番『昼』、第8番『晩』)や『第31番”ホルン信号”』など、約26曲の交響曲を作曲した。
1766年3月34歳 同侯爵家楽長に昇進。

『交響曲 第31番 ”ホルン信号”』(1765)

1768年から1773年頃をハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」期と呼び、『交響曲第26番』『第35番』『第38番”こだま”』~第52番(第40番を除く)、『第58番』『第59番”火事”』『第65番』『弦楽四重奏曲』Op.9、17、20、『ピアノソナタ第33番』、ミサ曲『聖ニコライ』などの数々を作曲。
1770年代後半になるとより簡明な作風に変化した。

『ピアノソナタNo.33 Hob.XVI/20』(1771)
ピアノ:S.リヒテル(1915-1997)

1780年48歳 この頃にはエステルハージ家の外でも人気が上がる。
この時期『ロシア四重奏曲 Op.33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調(Hob. XVIII:11)』(1784年出版)などの重要な作品を作曲。またウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結び楽譜を出版。

『チェロ協奏曲』(1783)
チェロ:ブリュノ・ドルプレール(1989-)
指揮:ミヒャエル・ザンデルリング(1967-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2019年演奏)

1781年49歳 24歳年下のW.A.モーツァルト(1756-1791)と交流を持つようになる。互いに尊敬し合い、モーツァルトが亡くなるまで友情が続いた。モーツァルトは1782年から1785年にかけて作曲した、6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)をハイドンに献呈した。ハイドンは、モーツァルトの遺児(カール・トーマス・モーツァルト)の音楽留学の世話をしている。
1785年53歳 この頃から国外からの注文が殺到し、フランスからの注文で『パリ交響曲』(第82番『熊』~第87番)、スペインからの注文で管弦楽曲(後に弦楽四重奏曲やオラトリオに編曲)『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』など作曲。
1790年58歳ニコラウス・エステルハージ侯爵没後名誉楽長となり、年間1400グルデンという十分な年金を得ながら、自由に作曲する機会が与えられる。
ウィーンへ移住。

『弦楽四重奏曲 ”ひばり”』(1790)

1791年59歳 ロンドンに渡り、翌年6月にかけて新作交響曲を自身の指揮で発表。大成功をおさめ富と名声を得た。オックスフォード大学より名誉音楽博士号授与。ロンドン滞在中に『交響曲第94番「驚愕」』(1791)、『交響曲第96番「奇蹟」』(1791)など作曲。最もよく知られ『びっくりシンフォニー』とも呼ばれる『交響曲第94番』はロンドンの聴衆が居眠りをするなどのマナーの悪さに対して、ユーモアを持って第2楽章にティンパニ奏者の強打を入れたことから、後に「驚愕」と付けられるようになった。

1792年60歳 ウィーンに帰着。帰途、ボンで22歳のベートーヴェン(1770-1827)に出会う。
1793年61歳 ウィーン郊外グンペンドルフに家を建て、晩年の住居となった(現在はハイドン博物館になっている)。
1794年62歳 2回目のロンドン訪問。2回のイギリス訪問は大成功をおさめ、総収入は20000グルデンにのぼったとされる。この時期に『交響曲第100番”軍隊”』(1794)、『第101番”時計”』(1794)、『第103番”太鼓連打”』(1795)、『第104番”ロンドン”』(1795)、『弦楽四重奏曲 第74番(第59番)”騎士”』(1793)や『ピアノ三重奏曲第25番”ジプシーロンド”』(1794)など、よく知られる作品が作曲された。

『交響曲 第100番”軍隊”』(1794)
指揮:アンドラーシュ・シフ(1953-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1795年63歳 ロンドンからウィーンへ戻る。
1796年64歳 当主が変わったエステルハージ侯爵家において楽長に再び就任。
1796年から1802年にかけて作曲したミサ曲はハイドンの後期六大ミサと呼ばれる。管弦楽曲『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』をオラトリオに改訂し、オラトリオ『天地創造』『四季』など作曲し、大きな成功を収めた。

オラトリオ『天地創造』(1798)
指揮:S.ラトル(1955-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2017年演奏)

1797年1月64歳 『神よ、皇帝フランツを守り給え』を作曲。この曲は2月12日に国歌として制定された。

1803年71歳 前年から体調が悪化し、この年を最後に指揮に立つことがなくなり、最後の作品となる『弦楽四重奏曲 第83番』が未完成のまま出版される。編曲や曲の改訂は以後も続けている。
1804年72歳 エステルハージ侯爵家の楽長を辞任。
1809年5月31日77歳 ナポレオンのウィーン侵攻による占領下のウィーンのグンペンドルフの自宅で亡くなる。6月1日に葬儀が行われ、ウィーンのフントシュトルム墓地(現ハイドン公園)に葬られた。
6月15日には市民の参列できる追悼式が行われ、大勢の参列客が訪れた。

1820年 アイゼンシュタットにエステルハージ家によって建てられたベルク教会へ遺体を移すために棺を開けると彼の頭蓋骨が切断され盗まれていた。オーストリアの刑務所管理人ヨハン・ペーターと、かつてエステルハージ家の書記で、ハイドンを尊崇していたローゼンバウムが犯人であった。骨相学の信奉者であったペーターは、ハイドンの天才性と脳容量の相関関係についても研究し「ハイドンの頭蓋骨には音楽丘の隆起が見られた」などとする論文を発表。「研究」が終了すると、ハイドンの頭蓋骨をローゼンバウムに下げ渡し、その後所有者を転々とした後、1895年以来頭蓋骨を所有していたウィーン楽友協会から1954年にようやくベルク教会に戻った。なお、胴体は第二次世界大戦後にソビエト連邦が保管していたが、現在は返還されている。


ハイドン ピアノ・ソナタ全集 1 (ウィーン原典版)

『ドイツの歌』

『交響曲 第101番”時計”』第2楽章(1794)
指揮:G.アントニーニ(1965-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2015年10月演奏)

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