7月26日1874年【S.クーセヴィツキー】

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セルゲイ・クーセヴィツキー
Serge Koussevitzky

[ 指揮者 / ロシア-アメリカ ]
1874年7月26日-1951年6月4日 76歳没
若い頃から、同時代の作曲家に委嘱し演奏会で作品を取り上げ、作曲家を擁護し数多くの名作が生まれたことは、偉大な功績です。
そして、ボストン交響楽団を音楽監督としての25年で世界水準に引き上げ、L.バーンスタインで知られるタングルウッド音楽祭ですが、音楽祭を始め、彼を育てたのはクーセヴィツキでです。


セルゲイ・クーセヴィツキーの芸術

生涯

1874年 モスクワとサンクトペテルブルクの中間付近にある古都、ヴイシュニー・ヴォロチョークのユダヤ系音楽一家に、退役軍楽士で職人の父アレクサンドル・クーセヴィツキ―とアンナ・バラベイチェクの間に生まれる。
幼少よりヴァイオリン、チェロ、ピアノ、トランペットをたしなむ。当時のモスクワはユダヤ教徒の移住を受け入れておらず、本格的に音楽の勉強をするためにルター派プロテスタントに改宗。進学希望のモスクワの学校で残っていた奨学金対象科目であるコントラバスを選択した。
1892年18歳 モスクワで開かれた電気の博覧会の会場でピアノを演奏するS.ラフマニノフ(1873-1943)と出会う。以後、半世紀に渡って交流することとなる。
1894年20歳 モスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校(現ロシア舞台芸術大学)で音楽を学んだ後、ボリショイ劇場管弦楽団コントラバス奏者となる。
1896年3月25日21歳 コントラバスソロデビュー。
1902年28歳 ラフマニノフと共にバイロイトを訪れ、ワーグナー未亡人達から迎えられ『指環』『パルジファル』『オランダ人』を鑑賞。
同年、『コントラバス協奏曲 嬰ヘ短調 Op.3』を作曲。
さらに同年、ボリショイ劇場バレエ・ダンサーのナデージダ・ガラートと結婚。
1903年29歳 ベルリンでリサイタルを開催し、コントラバスの名手としての評価を得る。同年、ラフマニノフがボリショイ劇場の指揮者となり、そのもとで演奏するうちに指揮者をめざすようになる。
1905年31歳 ナデージダと離婚。ロシアの紅茶商人の娘ナタリー・ウシュコヴァ(1880-1942)と再婚。大富豪の莫大な財力得て、ボリショイを辞め夫婦でベルリンへ移住。

A.ニキシュ(1855-1922)を経済的に支援し、指揮法を学ぶ。自宅に学生オーケストラを編成し指揮の練習をする。
1906年から1908年にかけて、ベルリンを皮切りに、ヨーロッパ各地でバス・リサイタルを行う。
1908年34歳 ベルリンにて、ベルリン・フィルを雇い指揮者デビュー。S.ラフマニノフ(1873-1943)『ピアノ協奏曲第1番』(1891)と『第2番』(1901)をラフマニノフ自身のピアノで演奏し、成功をおさめる。
1909年35歳 夫人の援助によって楽譜出版社「ロシア音楽エディション」をベルリンで設立。スクリャービン(1872-1915)、ラフマニノフ(1873-1943)、メトネル(1880-1951)、ストラヴィンスキー(1882-1971)などの作曲家の版権を得て出版。ロシア音楽が演奏会でとりあげられるよう努める。
同年、モスクワに戻る。
1911年37歳 自身のオーケストラ「クーセヴィツキー管弦楽団」を結成。蒸気船をチャーターしてロシア各地でオーケストラ演奏会やコントラバス演奏会を開き、第一次世界大戦(1914-1918)が始まるまで継続した。
1917年43歳 ロシア革命の後、宮廷管弦楽団が改組されて国営組織となり、初代の常任指揮者に就任。
1920年46歳 10月革命(1917)以降のレーニン(1870–1924)率いるボリシェヴィキ政権を嫌いソ連を離れ、ベルリンとパリへ渡る。

パリでは、演奏会シリーズを企画・開催、指揮し、S.プロコフィエフ(1891-1953)、I.ストラヴィンスキー(1882-1971)、M.ラヴェル(1875-1937)等の新作を積極的にとりあげる。このシリーズは、1924年渡米後も1929年まで夏季に開催され、さまざまな作品を取り上げた。
1924年50歳 ボストン交響楽団常任指揮者就任(-1949)。アメリカに移住。

チケット収入、録音収入、放送収入、教育収入という4つの軸を基本とした施策が成功をおさめ、当初3年の契約だった常任指揮者を25年にわたって務め、ボストン交響楽団を世界的水準のアメリカ5大オーケストラの一つに数えられるようになるまで引き上げた。
1929年までは夏になるとパリに渡りコンサートを続ける。

1937年8月63歳 ボストン交響楽団は、タングルウッドに住むタッパン家から85万平方メートルの土地を寄贈され、同地で「タングルウッド音楽祭」を開催。戦時を除いて毎年多くの聴衆を集めている。

同時代の作曲家を擁護し、ロシア時代にはA.スクリャービン(1872-1915)後期の前衛的な作品を出版、上演し、I.ストラヴィンスキー(1882-1971)『管楽器のための交響曲』(1921年初演)、A.オネゲル(1892-1955)『パシフィック231』(1924年初演)、S.プロコフィエフ(1891-1953)『交響曲第2番』(1925年初演)、A.コープランド(1900-1990)『ピアノ協奏曲』(1927年初演)など、多くの作品の初演を手がけた。
また、作曲家に委嘱し、M.ラヴェル(1875-1937)による『展覧会の絵』の編曲(1922年)や、O.レスピーギ(1879–1936)による『音の絵』の編曲(1929年)、W.シューマン(1910–1992)の『アメリカ祝典序曲』(1930年)など多くの作品が生まれた。

1931年57歳 ボストン交響楽団創立50周年記念演奏会が行われ、委嘱作品ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』、オネゲル『交響曲第1番』プロコフィエフ『交響曲第4番』、H.ハンソン『交響曲第2番』などが演奏された。

タングルウッド音楽祭にて(1950年演奏76歳)

1940年66歳 タングルウッド音楽祭の企画の一部としてバークシャー音楽センターを設立し教育を開始。
初年度の生徒にL.バーンスタイン(1918-1990)がおり、彼はクーセヴィツキーから大きな影響を受け、自分の息子にクーセヴィツキのミドルネームを付けている。

1941年67歳 アメリカ市民権を得る。
1942年68歳 妻ナタリーが62歳で亡くなる。
ボストン交響楽団における25年間で初演した作品は100を超え、同年クーセヴィツキー財団を設立しさらに多くの作曲家に委嘱。
1943年には病床のB.バルトーク(1881-1945)に作曲を委嘱。完成期限なしの前払いという好条件でバルトークを元気づけ、翌年『管弦楽のための協奏曲』が完成、バルトークは白血病の身ながら初演に向けてのリハーサルに参加した。ほかに、B.ブリテン(1913-1976)歌劇『ピーター・グライムズ』(1945)、A.コープランド『交響曲第3番』(1946)、O.メシアン(1908-1992)『トゥーランガリラ交響曲』(1948)などの名作が作曲された。『ピーター・ブライムズ』とコープランド『交響曲第3番』はナタリーに献呈されている。

1947年73歳 ナタリーの姪で、18年間クーセヴィツキー夫妻と共に暮らして秘書を務め、フランス政府の農務大臣を務めた父を持つオルガ・ナウモワ(1901-1978)と結婚。
1949年8月75歳 健康問題からボストン交響楽団音楽監督の辞任を発表。その後も指揮活動を行う。
1951年6月4日76歳 ボストンで亡くなる。タングルウッドのあるバークシャー郡レノックス、ヒル墓地の教会に妻ナタリーと共に埋葬される。

コントラバスの名手でもあったクーセヴィッキーは、コントラバスのための作品をいくつか残し、コントラバス奏者にとっては重要なレパートリーとなっている。夫亡き後、コントラバス奏者ゲーリー・カー(1941-)の演奏を聴いて感動したクーセヴィツキー未亡人は、クーセヴィツキーが使っていた1611年製のアマティを彼に贈った。

クーセヴィッキー:コントラバス協奏曲
コントラバス:ゲーリー・カー

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