4月23日1891年【S.プロコフィエフ】

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セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ
Сергей Сергеевич Прокофьев
Sergei Sergeevich Prokofiev

[作曲家・ピアニスト・指揮者/ロシア]
1891年4月23日-1953年3月5日 61歳没
当時のロシアを代表する前衛作曲家でしたが、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品を残し、20世紀を代表する音楽家となりました。
優れたピアニストでもあり多くのピアノ作品を残しており、ソナタをはじめパワフルな曲が多いのは、彼の身長が190㎝もあった事も理由のひとつだと思います。
ロシア革命時にアメリカへ亡命する道程で日本に約3ヶ月滞在し(1918年)、クラシック音楽界に大きな影響を与えました。




 
ロミオとジュリエット No.13 騎士たちの踊りDance of the Knights
指揮:V.ゲルギエフ(1953-)
ロンドン交響楽団(2008年演奏)

生涯

1891年 現ウクライナ、ドネツィク州ソンツォフカの裕福な家庭に生まれる。父は貴族である農業管理人で母はピアニスト。
1895年4歳 母にピアノ演奏を学ぶ
1896年5歳 ピアノ曲『インドのギャロップ』作曲。幼少のころからずば抜けた音楽的才能をあらわし、この頃からオペラに関心を持ち、その後和声、形式、管弦楽法の基礎を学ぶ。
1900年9歳 最初のオペラ『巨人』作曲。
1901年10歳 2作めのオペラや4楽章から成るシンフォニーを作曲。少年期に数多くのピアノのための小品を作曲。
1903年12歳 本格的オペラ『ペスト流行期の酒宴』作曲。モスクワ音楽院の院長を務めたS.タネーエフ(1856-1915)を訪ねる。
1904年13歳 ペテルブルク音楽院に入学し、和声楽をリャードフ(1855-1914)、管弦楽法をリムスキー・コルサコフ(1844-1908)に学ぶ。
1905年14歳 特別ピアノ・クラスでヴィンクレル(1865-1935)にピアノを学ぶ。
1908年17歳 『交響曲ホ短調』作曲。A.グラズノフ(1865-1936)の斡旋で宮廷オーケストラの非公開リハーサルで演奏される。
1909年18歳 音楽院での作曲科の課程を修了。ピアノと指揮のクラスに入る。『ピアノソナタ1番Op.1』作曲。
1910年19歳 父が急死する。
1912年21歳 『ピアノ協奏曲 第1番 Op.10』翌年『ピアノ協奏曲 第2番 Op.16』を自身のピアノにより初演。

1914年23歳 サンクトペテルブルク音楽院ピアノ科と指揮科を修了。
前年にロンドンで出会った芸術プロデューサーであるディアギレフ(1872-1929)と再会し、バレエ作品を作ることを約束する。
1915年9月24歳 ペテルブルク音楽院オルガン科再入学。
1917年26歳 ロシア革命の混乱により、祖国を離れることを考える。

1918年5月7日27歳 アメリカへの亡命を決意。北米を目指しモスクワを発ち、6月1日東京に到着。南米行き船の次便が8月だったため、それまで日本に滞在。6月12-18日京都、19-28日奈良に滞在し、6月29日以降は東京と横浜周辺に滞在。7月6日と7日には東京、9日には横浜でピアノ・リサイタルを開催。彼の来日は日本音楽界に大きな影響を与えた。8月2日離日し、9月アメリカ合衆国着。
1918年27歳-1922年31歳 アメリカを拠点として、年間6~70回の演奏会に定期的に出演。
1921年30歳 パリで『スキタイ組曲』、バレエ『道化師』が初演され賞賛を得る。
同年『ピアノ協奏曲第3番Op.26』(1921年)シカゴにて、自身の独奏とシカゴ交響楽団により初演。初演当初は特に人気が出なかったが、翌1922年にクーセヴィツキー(1874-1951)によるパリ初演が高い称賛を得て、彼の代表作となった。

『ピアノ協奏曲 第3番 Op.26』
ピアノ:ユジャ・ワン(1987‐)
指揮:クラウディオ・アバド(1933-2014)
ルツェルン祝祭管弦楽団(2009年)

1923年32歳 フランス、パリを活動拠点とする。
『ヴァイオリン協奏曲 第1番』『ピアノソナタ 第5番』『ピアノ協奏曲 第2番(改訂版)』など初演される。
1925年34歳 『交響曲第2番』初演。
1927年36歳 ディアギレフの依頼によるバレエ『鋼鉄の歩み』(1925年)バレエ・リュスにより初演。1920年代後半には祖国復帰を考えるようになり、この年、短期間の帰国を果たす。

1929年38歳 ソビエトを訪れ、大歓迎を受けたが、モスクワでの演奏会の前に交通事故に遭い手を負傷し演奏会は中止となった。

ピアノ:プロコフィエフ

1932年41歳 スターリン(1878-1953)を 最高指導者とするソ連共産党一党独裁によるソビエト社会主義共和国連邦に帰国。創作活動に力を入れる。

映画音楽『キージェ中尉』(1933年)交響組曲『キージェ中尉Op.60』(1934年編作)『ヴァイオリン協奏曲第2番Op.63』(1935年)歌曲『6つの歌Op.66』(1935年)ピアノ曲『子供の音楽Op.65』(1935年)ナチス・ファシズムを風刺した交響的物語『ピーターと狼Op.67』(1936年)バレエ『ロミオとジュリエットOp.64』(1936年)など発表。

『ロミオとジュリエット』(1936)
指揮:ムラヴィンスキー(1903-1988)
レニングラードフィルハーモニー管弦楽団

1941年8月50歳 ドイツ軍の侵入により、他の芸術家たちとともにモスクワからコーカサスのナリチクへ疎開。
1943年1月18日51歳 『ピアノソナタ第7番 Op.83』モスクワにてS.リヒテル(1915-1997)によって初演。プロコフィエフが初めて初演を他のピアニストに託したピアノ作品である。同年、スターリン賞第1席受賞、労働赤旗勲章受章、功労芸術家の称号授与。

『ピアノソナタ 第7番』
ピアノ:S.リヒテル(1915-1997)

戦争ソナタ『ピアノ・ソナタ 第6番 Op.82~第8番 Op.84』(1940-44)オペラ『戦争と平和 Op.91』(1943年/1952改作)バレエ『シンデレラ Op.87』(1944年)など作曲。
1945年1月13日53歳 自身の指揮で初演された『交響曲 第5番 Op.100』が大絶賛を受ける。この時が最後の指揮となった。
同年1月末に階段から落下し、後頭部を打ち意識不明となる。その後約3年間病床となった。

『交響曲 第5番 Op.100』
指揮:G.ドゥダメル(1981‐)
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

1946年55歳 病気が重くなったため、ニコーリナに移る。スターリン賞受賞。
1949年58歳 単純化された書法へ作風が変化した作品、バレエ『石の花 Op.118』『チェロとピアノのためのソナタ Op.119』作曲。
その後病状が悪化し、モスクワ郊外のバルビバ療養所に入る。
1951年60歳 モスクワにて作曲家同盟主催による60歳の誕生日祝賀会が開かれ、『ピアノ・ソナタ 第9番 Op.103』(1947年)が、リヒテルにより初演された。

1952年61歳 最後の大作『交響曲第7番”青春”Op.131」作曲。

『交響曲 第7番 Op.131』
指揮:V.ゲルギエフ(1953‐)
ロンドン交響楽団
1953年3月5日午後6時 脳出血により亡くなる。その3時間後にスターリンが亡くなっている。
3月7日モスクワ中央会館にて葬儀が行われ、葬儀委員長はカバレフスキー(1904-1987)が務めた。ノヴォデヴィチ教会の墓地に眠る。
死後の1957年『交響曲第7番』で生涯6度目のレーニン賞受賞。



 

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