4月1日1873年【S.ラフマニノフ】

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セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ
Sergei Vasil’evich Rachmaninov

[ 作曲家・ピアニスト / ロシア ]
1873年4月1日-1943年3月28日 69歳没
モスクワ音楽院でP.チャイコフスキー(1840-1893)に目をかけられ、作曲科とピアノ科を首席で卒業し、ヴィルトゥオーゾのピアニスト、作曲家として世界で活躍しました。
ロマン的色彩にあふれた作品は映画やフィギュアスケートなどに使用され、クラシックファンにとどまらず、多くの人に親しまれています。
彼の作品は総じて難曲と言われるのですが、ラフマニノフはピアノ鍵盤のドから1オクターブ以上高いソを押さえられるほど大きな手をもっており、小さな手を持つ者にとっては特に演奏することが難儀です。


ラフマニノフ自作自演~ピアノ協奏曲全集

『ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 Op.18』(1901)
ピアノ:ラフマニノフ
指揮:アレクサンドル・ジロティ(1863-1945)


生涯

1873年4月1日 ノブゴロド近郊の没落貴族の家庭に生まれる。
1877年4歳 ピアノを学び始める。
1882年9歳 一家が破産し、ペテルブルクに移住。
まもなく両親が離婚し母子家庭となる。
音楽の才能を認められ奨学金を得て、ペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学。
1885年12歳 全ての学科の試験で落第。
母はセルゲイの従兄であるピアニストのアレクサンドル・ジロティ(1863-1945)に相談し、モスクワ音楽院に転入。 ズヴェーレフ(1832–1893年)のもと厳しいピアノレッスンを受ける。ほかにアントン・アレンスキー(1861-1906)に和声を、セルゲイ・タネーエフ(1856-1915)に対位法を学んだ。
同級生にA.スクリャービン( 1872-1915)がいた。ズヴェーレフを介してP.チャイコフスキー(1840-1893)と知遇を得て才能を認められた。
1891年18歳 モスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業。スクリャービンは小金メダルだった。本来金メダルは一人に授けられたが、二人の才能が突出していたため大小金メダルが授与された。
同年『ピアノ協奏曲第1番』作曲。
1892年19歳 同院作曲科を金メダルを得て卒業。
同年10月8日モスクワ電気博覧会で初演された『前奏曲嬰ハ短調』が大きな人気を得る。

『前奏曲 嬰ハ短調 Op.3-2』(1892)
ピアノ:エミール・ギレリス(1916-1985)

1897年24歳『交響曲第1番』(1895)初演が大失敗におわる。
指揮を務めたA.グラズノフ(1865-1936)の力量不足とも言われているが、以来この作品はラフマニノフ存命中は演奏されず、これが原因でラフマニノフは神経衰弱で作曲ができない状態となり、ピアニストや指揮者として活動する。
この時期、日本ではシャリアピンステーキで知られるオペラ歌手シャリアピン(1873-1938)と知り合い、共演者だけでなく終生の友となった。

ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、F.リスト(1811-1886)と並び称される作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた。
身長は2メートルに達し、ピアノ鍵盤のドから1オクターブ以上高いソを押さえられるほど大きく、マルファン症候群とも言われる柔軟な手をもっていた。そのため、小さく広がらない手を持つ人にとって弾きにくい作品が多いが、技巧に走りすぎることなく、チャイコフスキーを規範とし、後期ロマン派の叙情性を継承している。

1901年28歳 『2台のピアノのための組曲第2番』『ピアノ協奏曲第2番』作曲。
『ピアノ協奏曲第2番』はラフマニノフのピアノと従兄のジロティ指揮により初演され、グリンカ賞を受賞するなど大成功を収め、表舞台に返り咲いた。
映画『逢びき』『旅愁』『七年目の浮気』や、フィギュアスケートでは浅田真央らに使用されるなど、彼の代表作でありクラシック音楽の中でもよく知られる作品である。

『2台ピアノのための組曲 第2番 Op.17』
ピアノ:D.トリフォノフ(1991-)、S.ババヤン(1961-)

1902年29歳 従姉のナターリヤ・サーチナと結婚。
1906年33歳 妻に捧げた曲を含む『12の歌曲集Op.21』完成。
第5曲『ライラック』は、後にピアノ独奏曲に編曲し、ライラックの花はラフマニノフを象徴する存在となっている。ライラックは「愛の芽生え」との花言葉をもち、彼が愛したイワノフカの別荘の庭に咲き乱れていた。
ラフマニノフの伝記映画「ある愛の調べ」の原題は「Lilacs(ライラック)」

『ライラック Op.21-5』
ピアノ:ラフマニノフ

ライラック, 春, 花, 紫色, フローラ, 自然, 花びら

1908年1月34歳 『交響曲第2番』自身の指揮で初演され大成功をおさめ、2度目のグリンカ賞を受賞。
1909年11月36歳 『ピアノ協奏曲第3番』ニューヨークで自身のピアノ演奏で初演。翌年1月にはG.マーラー(1860-1911)指揮で同作品を演奏し、名声はさらに高まった。

『ヴォカリーズ Op.34-14』(1915年)
母音のみで歌われるこの作品は、様々な編成に編曲され親しまれている。
ソプラノ:ナタリー・デセイ(1965‐)

1917年12月44歳 十月革命によりロシアを出国。以後ヨーロッパで演奏活動を行うが、二度とロシアの地を踏むことはなかった。
1918年45歳 アメリカに渡りコンサート・ピアニストとして活動する。
1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開。祖国を離れたことや活発な演奏活動により、作曲活動は行っていない。

1926年53歳 ロシア出国後初の作品となる『ピアノ協奏曲第4番』作曲。
1931年58歳 ソビエト連邦の体制を批判したことにより、政府はラフマニノフの作品の上演を禁止(2年後解除)。
スイスのルツェルン湖畔に移住し、その地で1934年『パガニーニの主題による狂詩曲』、1936年『交響曲第3番』を作曲。

『パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43』(1934年)
変奏曲の形態を取ったピアノ協奏曲。第18変奏が有名。
ピアノ:ダニエル・トリフォノフ(1991‐)
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン(1975‐)
フィラデルフィア管弦楽団

1942年69歳 第2次世界大戦により、家族とともにカリフォルニア州ビバリーヒルズに移住。
1943年3月28日 晩年にはスターリン(1878–1953)から帰国要請があったが、祖国に再び戻ることなく70歳の誕生日目前に癌のためビバリーヒルズの自宅で亡くなった。

『交響曲第3番』
指揮:S.ラトル(1955-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団


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