12月2日1923年【マリア・カラス】

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マリア・カラス
Maria Callas
Μαρία Κάλλας

[ ソプラノ歌手 / アメリカ ]
1923年12月2日-1977年9月16日 53歳没
クラシック音楽ファンならずともその名が知られるソプラノ歌手。
富豪オナシスとの恋愛でも知られています。


©2017 – Eléphant Doc – Petit Dragon – Unbeldi Productions – France 3 Cinéma

 

プッチーニ:私のお父さん

生涯

1923年 薬局を経営するギリシャ系移民の次女としてニューヨークに生まれる。
母親は長女をピアニストにマリアを歌手にすることを夢に、娘たちに音楽教育を受けさせた。
1936年 両親の離婚を機に、母親とともに母の故郷ギリシャに渡り、マリアはアテネ音楽院でエルビーラ・デ・イダルゴ(1892-1980)に師事。ベルカント唱法を学び幅広いレパートリーを得る。
1938年15歳 アテネ王立歌劇場で『カヴァレリア・ルスティカーナ』サントゥッツァ役でデビュー。
1947年23歳 ヴェローナ音楽祭で『ラ・ジョコンダ』主役でイタリアデビュー。
この頃、夫となる27歳年上の実業家メネギーニ、指揮者トゥリオ・セラフイン(1878-1968)、当時ナポリのサンカルロ歌劇場の芸術監督であったフランチェスコ・シチリアーニに出会う。セラフインは、イタリアにおいて初めてカラスの才能を認めた人物であり、最高の当たり役ヴェルディ椿姫』、ケルビーニ『メデア』などで彼女を抜擢し、スターへの道を開いた。1948年ベッリーニ『ノルマ』は特に大成功をおさめ。1965年まで18年間に88回演じた。

1949年26歳 メネギーニと結婚。
1950年27歳 ミラノ・スカラ座の名誉あるシーズンオープニングで『アイーダ』を、1956年メトロポリタン歌劇場に『ノルマ』を演じデビュー。それぞれセンセーショナルな成功を収めた。

絶頂期に出演したヴィスコンティ演出G.ヴェルディ『椿姫』、ゼッフィレッリ演出、G.プッチーニトスカ』は彼女の大傑作とされ、オペラ史に残る舞台といわれる。

椿姫

映画、演劇の優れた演出家として知られるヴィスコンティの助言により、カラスは役づくりの為に、1953年から1954年にかけて体重を30Kg落とした。

演出家ゼッフィレッリは『トスカ』『椿姫』などでカラスの名声を高め、カラス没後には、映画『永遠のマリア・カラス』を監督している。

G.プッチーニ:トスカ

スカラ座、メトロポリタン歌劇場など世界の主歌劇場で演じ、頂点を極め、ロッシーニベッリーニドニゼッティらのベルカントオペラから、ヴェルディプッチーニなど、リリコ・スピントやドラマティコの役柄まで幅広いレパートリーを、優れた歌唱テクニックと演技により多くの人を魅了した。

1958年34歳 ローマ歌劇場にてイタリア大統領をはじめ政治家や有名人を客席にベッリーニ『ノルマ』タイトルロールで出演したが、不調のため第1幕のみで降板。代役を用意していなかった公演は中止となり、それに怒った観客で大混乱となり、世界的な大スキャンダルとなった。イタリア政府はスカラ座に今後カラスを使わないよう要請し、スカラ座もそれに応じた。

1958年12月19日パリオペラ座にて第一部コンサート形式、第二部『トスカ』第2幕のみで行い、大成功を収める。

ベッリーニ『ノルマ』、モーツアルト『後宮よりの逃走』ヴェルデイ『マクベス』『トロバトーレ』、ケルビーノ『メデア』はカラスの五大役と言われた。
しかし、若い頃から血圧の問題や喉や鼻のトラブルなどがあり、声に負担をかけるこれらのレパートリーと過酷なスケルージュによりキャンセルが多くキャンセル魔と言われ、嫉妬や嫌がらせ、ねつ造されたスキャンダルによるストレスにより絶頂期は10年ほどに過ぎなかった。

1960年前後から、高音域を楽譜通りに表現できなくなり、オペラよりリサイタルを行うようになる。その頃、社交界に出るようになりギリシャの海運王オナシス(1906-1975)と出会い、オナシスの豪華ヨットでの地中海クルージングに夫メネギーニとともに参加したことを機にオナシスと恋愛関係になり離婚。
1965年3月 メトロポリタン歌劇場支配人との確執から締め出されて以来、6年ぶりにMETの舞台に立ち、熱狂的に迎えられ大成功をおさめた。
1965年42歳『トスカ』の舞台を最後に事実上の引退状態となる。

1973年の初来日に続き、1974年にはテノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファノと日本国内4ヶ所でピアノ伴奏によるリサイタルを行った。前年から始めたワールドツアーの最後を飾るこのコンサートは、彼女の生涯における最後の公式な舞台となった。

1974年10月27日東京公演終演後、ステファノとともに行われたインタビュー

オナシスとの愛人関係はケネディ大統領未亡人ジャッキーとオナシスの結婚後も続いた。その後ステファノと恋愛関係になり、1976年12月末まで続いた。

1977年9月16日、隠棲していたパリ16区の自宅にて53歳で死去。
死因は心臓発作と言われるが、ゼフィレッリは彼女の遺産を横領したヴァッソ・デヴェッツィ(ピアニスト)による毒殺説を唱えている。
遺灰はペール・ラシェーズ墓地に一旦は埋葬され、生前の遺言により1979年6月に出身地ギリシャ沖のエーゲ海に散骨された。

ドキュメンタリー映画『マリア・カラスの真実』(2007)『私はマリア・カラス』(2017[日本公開は2018年12月])が公開されている。
ポスター画像
カラス没後、元夫メネギーニが『わが妻 マリア・カラス』を執筆した。

わが妻マリア・カラス(下) /G.B.メネギーニ(著者),南條年章(著者)

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