3月18日1844年【R.コルサコフ】

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ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ
Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov

[作曲家/ロシア]
1844年3月18日-1908年6月21日 64歳没
ロシア五人組の一人。
「管弦楽法の大家」と呼ばれた色彩的な作風は、世界中の近代作曲家たちに大きな影響を与え、指導者としてはストラヴィンスキー(1882-1971)、プロコフィエフ(1891-1953)をはじめとする優秀な作曲家を多く輩出し、ロシア音楽界の発展に大きな役割を果たしました。
調性に色を感じる共感覚者であったといわれています。

【ロシア5人組】
A.ボロディン(1833-1887)
C.キュイ(1835-1918)
M.バラキレフ(1837-1910)
M.ムソルグスキー(1839-1881)
リムスキー=コルサコフ(1844-1908)

『交響曲第1番』


生涯

1844年3月18日 ノヴゴロド近隣のティフヴィンに、軍人貴族の家庭に生まれる。
幼少時より音楽の才能をあらわす。
1856年12歳 サンクト・ペテルブルグの海軍兵学校に入学。
1859年15歳からピアノを始める。
1861年17歳 兵学校在学中のこの年に「力強い一団」の最年少のメンバーになる。
ロシア海軍の軍人としての職務の傍ら、歌曲や管弦楽曲などを発表する。
この年、M.バラキレフ(1837-1910)に出会い作曲の指導を受け、後の「五人組」の同人となる他の作曲家を紹介される。
1865年21歳 『交響曲第1番 Op.1』初演が成功を収め、その後管弦楽曲『サトコ』の初稿(1867)と歌劇『プスコフの娘』(1872)を完成させる。
1871年27歳 ペテルブルク音楽院の作曲と管弦楽法の教授に就任。これを機に、これまで正式に学んでいなかった伝統的な和声法や対位法を習得したことが、初期作品の改訂につながった。
門下から、A.グラズノフ(1865-1936)、ストラヴィンスキー(1882-1971)、S.プロコフィエフ(1891-1953)など、多くの著名な作曲家を輩出。

1874年30歳で軍務を退いて軍楽隊の監督に就き、指揮活動も開始。またロシア民謡の採集・編曲、M.グリンカ(1804-1857)のオペラの編集・出版など行う。
1883年から1894年まで、宮廷礼拝堂におけるバラキレフの助手となり、ロシア正教の奉神礼音楽について研究するかたわら、指揮者としても活動。

1881年 オペラ『雪娘』完成後、ムソルグスキーやボロディンの遺稿の補筆・完成に専心。空白期を経て『スペイン奇想曲』(1887)、千夜一夜物語に基づく交響組曲『シェへラザード』(1888)、序曲『ロシアの復活祭』(1888)など管弦楽曲の傑作が生まれる。

『スペイン奇想曲 Op.34 』(1887)
指揮:ズービン・メータ(1936‐)
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

1889年 パリ万国博覧会におけるロシア音楽のコンサートにおいて指揮者を務め、自作曲の他、グリンカ、ボロディンムソルグスキーなどの楽曲をフランスに紹介した。このコンサートの聴衆にC.ドビュッシー(1862-1918)やM.ラヴェル(1875-1937)らがいた。同年R.ワーグナー(1813-1883)のオペラ『指輪』上演に触発され、ワーグナーの管弦楽法を研究。
以後の創作はオペラが中心になり、ほぼ一年おきにオペラの新作を発表する。
1905年61歳 ロシア帝国の近代化の立ち遅れなど、政府批判を行ないロシア革命の発端となる「血の日曜日」事件に参加した学生を支持したため、音楽院の教授を解任される。これをきっかけに、彼を慕うA.グラズノフ(1865-1936)やA.リャードフ(1855-1914)らが相次いで辞職したため、リムスキー=コルサコフは復職した。
1908年6月21日64歳 ルーガ近郊リューベンスクにて狭心症により亡くなる。サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院ティフヴィン墓地に眠る。

1909年 反体制的とされ上演を認められなかったオペラ『金鶏』(1907)が初演された。

交響組曲『シェヘラザードOp.35』(1888年)
指揮: ジュリアン・クエルティJulian Kuerti(1976-)
hr-Sinfonieorchester (2015年演奏)

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