7月11日1912年【S .チェリビダッケ】

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セルジュ・チェリビダッケ
Sergiu Celibidache

[ 指揮者・作曲家 / ルーマニア ]
1912.7.11-1996.8.14 84歳没

音楽に対してこだわるあまり、ベルリンフィルと軋轢をもったり、カラヤンをはじめとする他の音楽家の毒舌を吐いたりと、曲者ではあるけれど熱狂的なファンを持つ20世紀を代表するマエストロであることは確か。


増補新版 チェリビダッケ 音楽の現象学

1985年ミュンヘン大学での歴史に残る講演録

A.ドヴォルザーク:交響曲 第9番「新世界」
ミュンヘン交響楽団(1991年演奏)

生涯

1912年 ルーマニアのローマンに生まれ、まもなくヤシへ移る。家にピアノがあり、6歳頃から17歳までピアノを習う。
ヤシはユダヤ文化の中心地でありユダヤ人と深く交流したことからユダヤ語に長け、他に多くの言語に精通した。
ヤシ工業大学で数学のち哲学を専攻するも、1年ほどでブカレストに出てダンス学校のピアノ弾きとなる。ラジオでハインツ・ティーセンの弦楽四重奏曲に刺激を受け、自作の弦楽四重奏曲をラジオベルリンへ送ったところ、R.シュトラウス(1864-1949)の助手として成功を収めたベルリン芸術大学教授ティーセン(Ⅰ887-1971)からすぐにベルリンへ来るよう電報が届く。
1936年24歳 ブカレストからベルリンへ移り、ティーセンに学ぶ。
ベルリンの総合大学において哲学を、音楽院において音楽を学ぶ。
この頃、中国に30年住んだ経験を持ち禅宗に精通している導師マルティン・シュタインケと出会い、大きな影響を受けた。後に「禅を知らなければ、初めに終わりがあるという特異な原理を知ることもなかった。音楽というのは、この原理の具現にすぎない。」と語り、その影響なのかオペラについて言葉と音楽という二分野の非両立性になじめず、関心がない。」と述べている。

1943年11月 ドイツ・ルーマニア音楽祭でディヌ・リパッティの作品を指揮。
第二次世界大戦中(1939-1945)、W.フルトヴェングラー(1886-1954)のコンサートやリハーサルにできる限り足を運んだ。

1945年33歳 大戦が終戦し、ソ連占領軍が行った指揮者コンクールで優勝。ベルリン放送響(東ベルリン)の初代首席となる。(-1946)
1945年8月29日 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。
深く尊敬するベルリンフィルの常任指揮者だったフルトヴェングラーの非ナチ化裁判に尽力し、彼が非ナチ化審理で謹慎中、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者に就任(-1952)。フルトヴェングラー復帰(1947年)後もベルリン・フィルを指揮した。
この間、バロックから近現代の作曲家までレパートリーを増やし、全て暗譜で指揮した

1948年36歳 初めての公式のレコーディングを行う。(ベルリン・フィルを指揮)。その直後にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と、イギリスでレコーディングしたが、自らの録音を聞いて、「エンジニアがテンポをいじった!」と疑ったほどその結果には満足がいかなかった。その後は録音技術の限界を感じ、ほとんどレコーディングを行わず、電気的に再生された音楽を「音の出るパンケーキ」と呼んだ。H.v.カラヤン(1908-1989)と比較されることを意識したとも言われている。

ベルリンフィルの多くの団員は彼の独裁的な気質に不満をもっており、チェリビダッケもベルリン・フィルと距離を置き、ロンドンをはじめヨーロッパ全域から中南米(1950年)にいたるまで客演の範囲を拡大し各地で大成功をおさめ、聴衆や批評家から絶大な人気を得た。
1952年40歳 フルトヴェングラーがゲルリンフィル終身首席指揮者に復帰。彼との関係は壊れており、オーケストラの団員や幹部はチェリビダッケに対して反発を強めていった。

1953年41歳 ベルリン市の音楽芸術賞受賞。
1954年11月29日42歳 ドイツ連邦共和国功労大十字勲章を授与された翌日、フルトヴェングラーが亡くなる前日に行われたコンサートで演奏する『ドイツ・レクイエム』のリハーサルでベルリンフィル団員と大衝突を起こし、これを最後に決別。38年後の1992年3月31日に最初で最後の復帰を果たすまで、ベルリン・フィルを指揮することはなく各地を客演で指揮。

フルトヴェングラーの死後、ベルリン・フィルは後継者にヘルベルト・フォン・カラヤンを選出。チェリビダッケはその後しばらくイタリアを中心に客演を行う。

1955年43歳 ドイツ批評家協会賞受賞。
1960年48歳 コペンハーゲン王立歌劇場管弦楽団の芸術監督就任。(-1963)。
1963年51歳 ストックホルム放送交響楽団芸術監督。(-1971)
1965年53歳 スウェーデン放送交響楽団音楽監督就任。(-1971)

M.ラヴェル:ボレロ
デンマーク国立放送交響楽団(1971年演奏)

1971年59歳 南ドイツ放送交響楽団(現シュトゥットガルト放送交響楽団)首席指揮者就任(-1979)。同楽団をドイツの有力オーケストラにまで引き上げたが、放送用の録画を本人の意に沿わない編集が行われた、という理由で1982年に決別している。
1974年62歳 フランス国立管弦楽団首席客演指揮者就任(-1975)。
各楽団でトラブルが絶えなかったが、各地での客演指揮者としての評価は非常に高かった。

1977年65歳 初来日し、読売日本交響楽団に客演。この時、リハーサルでは、テューニングだけに数十分を要したという。1980年にはロンドン交響楽団と来日した。晩年には仏教に改宗し、日本でも多く参禅を行なっている。

1979年67歳 ルドルフ・ケンペ(1910-1976)の後任としてミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団音楽総監督就任(-1996)。
新団員の多数採用、団員給与の引き上げ、プログラムや招聘する指揮者やソリストの決定に対する強い発言権など多数の条件のほぼ全てが認められ、トラブルがありながらも良好な関係が続いた。
1986年以降1990年、1992年、1993年とミュンヘンフィルと共にブルックナーを中心としたプログラムで来日公演を行った。

※ 女性トロンボーン奏者アビー・コナントが、ミュンヘン・フィル第1奏者の仕切り幕越しの採用試験において1位となったが、チェリビダッケは女性であることが判明すると、彼女を第2奏者としてしか起用しなかった。

※ 相当な毒舌で知られ、カール・ベームが晩年にミュンヘン・フィルに客演しようとした際、ベームを「芋袋」「ドンゴロス野郎」と呼んでいたと聞き、出演を取りやめた。また、カラヤンをはじめ他の指揮者に対する痛烈に批判を見かねて、C.クライバー(1930-2004)が天国にいるA.トスカニーニ(1867-1957)からの手紙という形をとって「ブルックナーは”あなたのテンポは全て間違っている”と言っています。天国でもカラヤンは人気者です」とユーモアをもってテレックスを打ったという。

※ 指揮を引き受ける条件として、一つのプログラムに対して通常は2.3日練習のところ1週間の要求をし、その練習はすべて公開とするとしていた。

1990年78歳 前年末のチャウシェスク政権崩壊直後のルーマニアで、ミュンヘン・フィルとともに慈善演奏会を開く。
晩年は、映像を伴う録画媒体の制作に積極的に取り組んだ。

1992年3月31日79歳 当時のヴァイツゼッカー大統領直々のはからいで、38年ぶりにベルリン・フィルを指揮。しかしこの際も団員から不評で、二度とベルリンフィルを指揮することはなかった。

ベルリンフィルとのリハーサル(ブルックナー『交響曲第7番』1992年)

ブルックナー:交響曲第7番
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(1992年演奏)


交響曲第7番 チェリビダッケ&ベルリン・フィル

ベルリン・フィルを指揮した唯一の映像として知られる(収録:1992年3月31日&4月1日)

同年7月11日 80歳の誕生日にミュンヘン市の名誉市民となる。
1996年8月14日、パリの自宅で亡くなる。

伝説的ライブ
シューベルト:交響曲第8番「未完成」、ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1) 1988年9月30日、ミュンヘン、ガスタイク・フィルハーモニーでのライブ
2) 1985年6月16日、ミュンヘン、ヘルクレスザールでのライブ


チェリビダッケの庭  [DVD]

チェリビダッケのドキュメントドラマ。監督は、長男のセルジュ・イオアン・チェレビダーキ。


異端のマエストロ チェリビダッケ
音楽の忠僕であり音楽のビジネス化を忌み嫌う人間、称賛されると同時に蔑視される、異端の指揮者チェリビダッケの初めての評伝。


チェリビダッケとフルトヴェングラー

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