4月5日1908年【H.v.カラヤン】

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ヘルベルト・フォン・カラヤン
Herbert von Karajan

[指揮者/オーストリア]
1908年4月5日-1989年7月16日 81歳没
クラシック音楽界の主要ポストを独占し「帝王」と呼ばれ、20世紀の音楽家で最も著名な人物。
指揮姿だけでなく、プライベートのファッションスタイルや所作もカッコ良い。

 

生涯

1908年4月5日 オーストリアのザルツブルクに、騎士の家庭に生まれる。
幼い頃から兄のレッスンを真似てピアノを弾き始め、3歳のときには絶対音感が身についていた。
1912年4歳 本格的なピアノのレッスンを受け始める。
1916年8歳 ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に入学。作曲法、室内楽、和声学、ピアノを学ぶ。
1917年9歳 モーツァルテウム音楽院で初のピアノ公開演奏を行う。
1926年18歳 ウィーン工科大学に入学(後に退学)。
そのかたわらウィーン音楽アカデミーでホフマン教授にピアノを学ぶ。ホフマンの勧めで同アカデミーの指揮科に正式入学。
この時期、ウィーン国立歌劇場に連日通った。
1929年1月22日20歳 ザルツブルクにて、親がスポンサーとなりモーツァルテウム管弦楽団を指揮。指揮者としての公的デビュー。プログラムはR.シュトラウス『ドン・ファン』、モーツァルト『ピアノ協奏曲第23番』、チャイコフスキー『交響曲第5番』。
同年、ドイツ南西部のウルム市立歌劇場のオペラ指揮者に就任(~1934)。
1933年25歳 ザルツブルク音楽祭に初出演。
1934年26歳 ザルツブルクでウィーン・フィルを初めて指揮(ドビュッシーラヴェル等)。
1935年27歳 アーヘン市の音楽総監督に就任。ドイツで最年少の総監督となる(-1941)。
1937年29歳 ウィーン国立歌劇場にワーグナー『トリスタンとイゾルデ』でデビュー。
1938年30歳 ベルリン・フィルを初めて指揮(ブラームス『交響曲第4番』他)、ベルリン国立歌劇場でワーグナー『トリスタンとイゾルデ』指揮などが国際的にも認められる。
ベルリン国立歌劇場管弦楽団と生涯初のレコーディングを行う(モーツァルト『魔笛 序曲』。翌年にはベルリンフィルとレコーディングを行い、以後積極的にレコーディングを行い、500タイトルにおよぶその多くが名盤とされる。

1940年32歳 アニータ・ギュンターマンと結婚(58年に離婚)。
1945年37歳 第2次大戦終結後、戦時中ナチス党員であったことからソ連の占領軍より、ドイツ、オーストリアでの指揮活動を禁止される。
1946年38歳 ウィーン・フィル指揮で、楽壇に復帰。
1948年40歳 ウィーン楽友協会の芸術監督、ウィーン交響楽団の首席指揮者に就任と同時にミラノ・スカラ座のドイツ・オペラ部門の総監督に就任。
1950年42歳 初のオペラ全曲録音を行う(ウィーン・フィル他との『フィガロの結婚』)。

1951年43歳 バイロイト音楽祭で初めて指揮するが、翌年に音楽祭の主宰者ワーグナーの孫であるヴィーラント・ワーグナー(1917-1966)と演出をめぐって対立し、2度と出演することはなかった。
1953年45歳 戦後初めてベルリン・フィルを指揮。
1954年46歳 初来日。NHK交響楽団を指揮。

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
指揮:カラヤン
NHK交響楽団
日比谷公会堂
1954年4月21日ライブ録音

チャイコフスキー : 交響曲 第6番 「悲愴」 | ベートーヴェン : ピアノ協奏曲 第4番

1955年47歳 ベルリンフィルの北米ツアーで、1954年11月に急逝したフルトヴェングラー(1886-1954)の代役を務め大成功をおさめる。この旅行中にベルリンフィルの芸術監督および終身首席常任指揮者に任命される。以後1989年に亡くなるまで34年にわたりその地位にあり一時代を築く。
1956年48歳 ザルツブルク音楽祭の芸術総監督に就任(-1960)。
同年ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任(-1964)。ベルリンフィルとともに、世界の実力、人気を二分する両オーケストラの芸術監督を同時に勤め「帝王」と呼ばれ始める。
1957年49歳 ベルリン・フィルとの初の日本ツアー。全国で15回公演を行った。
1958年50歳 フランス人モデル、エリエッテ・ムレーと結婚。

ヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870):ワルツ「うわごと」Op.212
指揮:カラヤン
ウィーンフィルハーモニー(1959年)

1964年56歳 ウィーン国立歌劇場のポストを監督と対立し辞任。
同年12月17日スカラ座での『椿姫』の上演がソプラノ歌手の不調により失敗。「カラスの呪い」と呼ばれる。

※1955年マリア・カラス主演、ヴィスコンティ演出、ジュリーニ指揮で上演された『椿姫』は、スカラ座の歴史上において最大の成功作のひとつであり、記録的な収益をもたらした舞台だったが、カラヤンとミレッラ・フレーニのコンビの上演失敗以来、スカラ座での『椿姫』の上演は封印され「カラスの呪い」と呼ばれていた。1992年ムーティ(1941-)が強行した上演が成功し、30年近くに及ぶ封印が解かれた。

シューマン:交響曲第4番
ウィーン交響楽団とのリハーサル(1965年)

1965年3月56歳 映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともに、映画フィルム・プロダクション「コスモテル社」をスイスに設立。コンサートとオペラの撮影のプロデュースを行う。

ドヴォルザーク(1841-1904):『交響曲第9番”新世界”』
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団1966年1月

1967年59歳 ザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、芸術監督に就任。
ベルリンにヘルベルト・フォン・カラヤン財団を設立。
1969年61歳 パリ管弦楽団の芸術監督に就任(-1971)。
カラヤン財団主催第1回国際指揮者コンクールを開催。オッコ・カム(1946-)が優勝した。
1972年64歳 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団団員の養成を目的としたオーケストラ・アカデミー、いわゆるカラヤン・アカデミーを創設。

ベートーヴェン:交響曲第5番

1975年67歳 最初の椎間板の手術を受ける。以後生涯に12回の大手術を受けた。
1977年69歳 13年ぶりにウィーン国立歌劇場へ復帰。
1978年70歳 脳卒中で指揮台から落下。
1979年71歳 指揮活動50周年の祝典が行われる。
1981年73歳 ザルツブルク復活祭音楽祭において、ドイツ・フラモフォン、フィリップス、ソニーとともに「コンパクト・ディスク・オーディオ・システム」を初めて全世界に披露。

1982年74歳 女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤー(1959-)をベルリン・フィルの楽員として強硬に採用。楽団と亀裂が生じる。
マイヤーは自ら退団したが、この騒動により有名になり、以来世界の100か所以上において主要なオーケストラと数多くの共演を行い、世界屈指のクラリネット奏者となった。
カラヤンはこの後、ベルリンフィルよりウィーン・フィルとの結びつきを深めていく。
同年、自身の完全なレパートリーをビデオ・ディスク、あるいは新しいビジュアル・メディアでプロデュースするために映像制作会社「テレモンディアル社」をモンテカルロに設立。ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化に着手。
1983年75歳 ウィーン・フィル管弦楽団の名誉指揮者に就く。
1986年78歳 ベルリン・フィルとのアメリカ&日本ツアーを病気のためにキャンセル。日本での代役は小澤征爾(1935-)が務めた。
1987年79歳 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを初めて指揮。ソリストはキャスリーン・バトル(1948-)。

1989年3月27日80歳 ヴェルディ『レクイエム』など、ベルリンフィルとの最後の演奏会を行う。
同年4月23日81歳 ウィーン楽友協会大ホールにてウィーン・フィル演奏ブルックナー『交響曲第7番』指揮は、生涯最後の演奏会となった。
あわせて行われた4月18~23日の録音も生涯最後となった。
翌日4月24日 ベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任。


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1989年7月15日 ザルツブルク祝祭大劇場で、同年夏のザルツブルク音楽祭でヴェルディの歌劇『仮面舞踏会』のリハーサルを行う。

1989年7月16日81歳 ザルツブルク郊外アニフの自宅で亡くなる。当時ソニー社長だった大賀典雄(1930-2011)が次世代のデジタルビデオ・カメラ納入の約束などの営業に訪れた際、心不全により大賀の腕に倒れ込み心停止となった。

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