1月23日1752年【M.クレメンティ】

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ムツィオ・クレメンティ
Muzio Filippo Vincenzo Francesco Saverio Clementi

[作曲家・ピアノ製造・楽譜出版/イタリア]
1752年1月23日 – 1832年3月10日  80歳没
ピアノ学習者にはソナチネ・アルバムに作品36の6曲のソナチネが収められていることで知られていますが、生前はピアニスト、音楽教育家として活躍したほか、楽譜出版などの功績があります。

Muzio Clementi.jpg

『ピアノソナタ Op.34-1』
ピアノ:W.ホロヴィッツ

生涯

1752年 ローマのサン・ロレンツォ教区に銀細工職人の父のもとに7人兄弟姉妹の長男として生まれ、早くから音楽に興味を示した。
1758年6歳 専門家の下でソルフェージュを学ぶ。
1759年7歳 オルガニストの下で通奏低音を学ぶ。
1764年12歳 最初で最後の声楽曲『オラトリオ』を作曲。初演。
1766年14歳 地区教会サン・ロレンツォの常任オルガニストに就く。
1767年頃 オルガニストとしての活動が、ロンドン市長を務めたベックフォードの甥でイギリスの貴族ピーター・ベックフォード(1740-1811)の目に留まり、彼に引き取られイギリスのドーセットに渡る。
1775年23歳 ロンドンへ移り、本格的な音楽活動を始めチェンバロ奏者として名声を得る。
1779年27歳 王立劇場で指揮者に就く。同年作曲した『ソナタOp.2』が好評を得て、以後演奏活動が増える。
1780年28歳 パリの宮廷にてマリー・アントワネットの御前で演奏。
1781年29歳12月 ウィーンにて神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世に招かれ御前演奏をする。ロシアのパーヴェル大公(後のロシア皇帝パーヴェル1世)らをもてなす席で、当時25歳のW.A.モーツァルト(1756-1791)と競演する。
1782年30歳 以後20年間ロンドンにて、ピアニスト・教師・作曲家として名を成す。出版会社の社長を務め、ベートーヴェン(1770-1827)を直接訪ねてイギリス版権を得て、『ピアノ協奏曲第5番』や『ピアノ・ソナタ』Op. 78、Op. 79などの作品を出版。

1790年5月31日38歳 最後の演奏会出演。ピアニストとしてのキャリアに終止符を打つ。
1797年45歳 『ソナチネアルバム』が刊行され作品36がおさめられる。


ソナチネアルバム(1) 解説付 zen‐on piano library (全音ピアノライブラリー)

1798年46歳 この頃から1830年頃までピアノ製作会社ロングマン&クレメンティ(後のコラード&コラード)を仲間と共同で設立運営。
1802年50歳 1810年にかけて8年間ヨーロッパを遍歴する。
1804年52歳 18歳のカロリーネ・レーマン嬢と結婚。
1805年53歳8月8日 息子カールが誕生したが、その9日後に妻カロリーネが亡くなる。
1810年58歳 ロンドンに定住し、フィールド(1782-1837)、カルクブレンナー(1785-1849)、クラーマー(1771-1858)、モシェレス( 1794-1870)など多くの有名なピアニストを育て、全欧で名声を高める。
1811年59歳 26歳のエマ・ギズボーン再婚。
1813年61歳 ロンドンに在住する音楽家30名と共に「フィルハーモニック協会」を設立し、1816年まで常任指揮者を務める。
1817年65歳 ピアノ練習曲『グラドゥス・アド・パルナッスム』の第1巻を、以後1819年には第2巻、1826年に第3巻を出版し、今日も使用されている。彼の教育作品は、C.ツェルニー(1791-1857)、F.ショパン(1810-1849)、F.リスト(1811-1886)などの個人レッスン、パリ音楽院のピアノ科でも教材として用いていた。


グラドゥス・アド・パルナッスム

4つの交響曲、小編成オーケストラ曲(作品18の第1番及び第2番)、ピアノ三重奏曲、約100曲のピアノソナタを残し、ベートーヴェンは、ピアノ曲に関してはモーツァルトの作品よりも高く評価した。

1832年3月10日80歳 ロンドンで亡くなる。3月29日にウェストミンスター寺院に埋葬され、墓石には「ピアノフォルテの父」と刻まれている。


クレメンティ:ヴァイオリン、フルート、チェロ・ソナタ集(8枚組)

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