12月22日1858年【G.プッチーニ】

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ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ
Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini

[作曲家/イタリア]
1858年12月22日-1924年11月29日 65歳没
人情味豊かな題材、優美な旋律で『トスカ』『蝶々夫人』『ラ・ボエーム』など、今日上演される機会の多い人気作品で知られるオペラ作曲家

ジャコモ・プッチーニの画像

生涯

1858年 トスカーナ地方ルッカで代々大聖堂オルガニストを務める家庭の5代目として生まれる。5歳で父を亡くすが、母親と叔父によって音楽教育を継続した。
1872年14歳 教会オルガニストとなる。
1876年3月17歳 教会音楽に優れたパティーニ音楽院で学んでいたが、ヴェルディのオペラ『アイーダ』を観てオペラ作曲家を志す。
1880年22歳 ミラノ王立音楽院(現ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院)にトップの成績で入学。バッツィーニ(1818-97)とポンキエッリ(1834-86)に師事した。
1884年26歳 初めてのオペラ『妖精ヴィッリ』を作曲し、ミラノでの初演が成功をおさめる。
同年7月母が亡くなり、その後まもなく声楽とピアノを教えていた人妻エルヴィーラと駆け落ちし、ミラノでエルヴィーラの娘と共に同棲を始める。1886年28歳 エルヴィーラとの間にアントニオが生まれる。

1891年33歳 トスカーナ地方のトッレ・デル・ラーゴに別荘を購入し、終生にわたって仕事場兼自宅とし、屋敷は現存しこの地にプッチーニは眠っている。
1893年35歳 第3作『マノン・レスコー』がトリノで初演され大成功をおさめ、オペラ作曲家としての地位を築く。

『マノン・レスコー』

『マノン・レスコー』の台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの協力のもと『ラ・ボエーム』(1896)『トスカ』(1900)『蝶々夫人』(1903)の3曲が書かれ、いずれも初演は大成功とは言えないものであったが現在ではオペラの主要なレパートリーとして世界中で上演されている。

『トスカ』1900年「歌に生き、恋に生き」

日本の長崎を舞台にした『蝶々夫人』は日本でもっともポピュラーなオペラの一つとして親しまれている。

1903年2月44歳 家族で乗っていた自動車が15メートル落下する交通事故を起こし、数か月車いす生活をする重傷を負う。『蝶々夫人』はそのような状況の中作曲された。
1904年46歳 長年内縁関係にあったエルヴィーラの夫が亡くなり、二人は正式入籍。
1909年51歳 エルヴィーラがプッチーニが女中と浮気していると責め立て、疑われた女中が服毒自殺、エルヴィーラが起訴されるというスキャンダル「ドーリア・マンフレーディ事件」が起こる。これを題材に2008年『プッチーニの愛人』として映画化された。

1910年52歳 メトロポリタン歌劇場の委嘱作品『西部の娘』が大成功をおさめる。

『西部の娘』
ヨナス・カウフマン(1969-)

1918年60歳 『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』の3曲からなる「三部作」とよばれる新しい試みとして1幕オペラの連作が初演される。

1924年11月29日65歳 ヘビースモーカーとして知られ、前年に判明した喉頭癌により急死。
1924年12月1日 ブリュッセル市内で葬儀が行われた後、遺体はミラノへ運ばれ、12月3日ドゥオーモで国葬となった。トスカニーニ指揮スカラ座の管弦楽団により、オペラ『エドガール』の中から演奏された。イタリアは国を挙げて喪に服し半旗が掲げられ、スカラ座は閉ざされた。
遺体はトスカニーニ家の墓所に仮安置され、2年後、柩は息子の手によりトッレ・デル・ラーゴ屋敷の内の墓所に再埋葬された。

遺作『トゥーランドット』は最後の二重唱まで書き上げてあったが、未完成のままブリュッセルに没したので、死後友人であるアルファーノ(1875―1954)が遺稿を参考に完成させ、1926年4月25日、ミラノ・スカラ座にてトスカニーニの指揮により初演された。その際トスカニーニはアルファーノの補筆を大幅にカットし、現在短縮した版が一般に用いられている。

『トゥーランドット』「誰も寝てはならぬ」
ルチアーノ・パヴァロッティ(1935-2007)

『トゥーランドット』Finale

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