2月5日1932年【田中 希代子】

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田中 希代子
たなか きよこ

[ピアニスト/日本]
1932年2月5日 – 1996年2月26日 64歳没
1950年18歳で敗戦国の焦土から、単身で渡欧しパリ音楽院に入学。日本人として初めてジュネーヴ国際音楽コンクール、ロン=ティボー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクール入賞という快挙を成し遂げました。
ヨーロッパで活躍していた絶頂期の38歳の時、膠原病により引退。その後は後進の指導に努めました。


東洋の奇蹟~没後10年記念アルバム

F.ショパン:ノクターン Op.15-1(1955年演奏)

生涯

1932(昭和7)年2月5日 東京都にヴァイオリニストの田中詠人と声楽家の伸枝のもとに生まれる。
弟の田中千香士は、NHK交響楽団でコンサートマスターも務めたヴァイオリニスト。
1936年4歳 中国戦線がドロ沼化する頃、幼稚園の先生からピアノの手ほどきを受ける。
1938年6歳 井口基成(1908-1983)に師事。東京女子高等師範学校附属小学校から疎開を経て、同附属高等女学校に進学。
1945年13歳 レオニード・クロイツァー(1884-1953)に師事。その後長期にわたり安川加壽子(1922-1996)に師事。
1949年17歳 第18回日本音楽コンクール2位特賞。
1950(昭和25)年18歳 安川加壽子の推薦により、戦後初のフランス政府給費留学生に選出され、森有正、吉阪隆正、秋山光和、北本治らとともにパリへ渡る。受験者300人中トップの成績でパリ国立高等音楽院に入学。ラザール・レヴィ(1882-1964)に師事。
その際、両親は莫大な借金をして渡航費と滞在費を捻出した。
音楽院入学直後、結核を発症、入院と手術を経て療養生活に入る。
1951年19歳 同音楽院の卒業試験前日まで、1日1時間レッスンと制限された療養中だったが、一等賞「プルミエ・プリ」で合格し卒業。
1952年20歳 ジュネーヴ国際音楽コンクールに1位無しの2位、日本人初の入賞。イングリット・ヘブラー(1929-)らと同位。日本人初の国際コンクール入賞で、日本音楽界の歴史的快挙だった。
その後、同コンクールに落選した友人の園田高弘(1928-2004)に、マルグリット・ロン(1874-1966)のレッスンを薦め、入門するきっかけを作った。
同年ロン・ティボー国際音楽コンクール1位無しの4位(日本人初の入賞)。
1953年21歳 パリのサル・ガヴォーでリサイタルデビュー。
1955年23歳 第5回ショパン国際ピアノコンクール10位、日本人初入賞し「東洋の天才少女」と絶賛された。この時、審査員のB.ミケランジェリ(1920–1995)が、ハラシェヴィチの1位に異論を唱え、アシュケナージが2位で田中が10位に不当を訴え、認定書にサインを拒否し退席した。
同年、日本人として初めて3つの国際コンクールに入賞し日本に凱旋帰国。日比谷公会堂でコンサートを開いた。

F.ショパン:練習曲 Op.25-3,6,8(1955年演奏23歳)

1956年24歳 作曲家の宍戸睦郎(1929-2007)と結婚。3年後に離婚したが、その後も音楽仲間として交流を続けた。
1959年27歳までパリ、離婚を機に1960年よりウィーンを拠点に、ヨーロッパからブラジルまで幅広く演奏活動を行う。


ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番 モーツァルト:ピアノソナタ第12番

1960年代初め、一時帰国した際聖心女子大学に招かれ、当時の皇太子妃(現上皇后美智子様)の前で演奏演奏。皇太子妃はとても感動し演奏後に歓談。その時のツーショット写真を希代子は亡くなるまでピアノの上に飾り続けた。
1966年34歳 弟千香士がNHK交響楽団のコンサートマスターに就任。6月13日に東京文化会館で記念の共演を行う。

サン=サーンス:ピアノ協奏曲 第5番「エジプト風」
指揮:ピエール・デルヴォー(1917-1992)
NHK交響楽団(1968年録音)


サン=サーンス:ピアノ協奏曲第4番&第5番

1967年12月35歳 ウィーンを拠点に2年先まで予定された演奏会のスケジュールをこなしていたが、一時帰国の際体調を崩し、年末年始のヨーロッパコンサートツアーをキャンセル。その後東京に拠点を置く。
1968年36歳 「これで、初心に帰れる。音階からみっちり磨き直す」との発言を弟・千香士が聞いているように、練習に励んでいたが、次第に手の指が開かなくなり、関節が痛み40度の高熱が続く。原因も治療法も分からない難病の膠原病と診断される。
同年3月 京都市交響楽団とショパン『ピアノ協奏曲第一番』を演奏した際、痛みのために止まり、弾き直しをする事態となり、これがオーケストラと協演した最後のステージとなった。
1970年38歳 民間療法や新興宗教などにも頼り、様々な療法を試みたが症状は悪化の一途をたどり、日生劇場で最後のリサイタルを開き、完全に演奏活動を引退。
同年、父詠人が亡くなる。


ドビュッシー・リサイタル

1973年41歳 車いすの生活を送りながら国立音楽大学講師となり、1977年からは桐朋学園大学でも後進の指導にあたる。
1980年48歳 膠原病治療の薬の副作用により脳梗塞で倒れ、右半身不随になる。介護は弟千香士が行った。
1987年55歳 ポーランドや東ドイツの放送局の地下室に眠っていたテープを探し出し、かつての演奏録音を修復し、記念CDを発売。
1989年2月19日57歳 TBSラジオ制作『「夜明けのショパン」~よみがえる天才ピアニスト田中希代子~』放送。この放送が第15回放送文化基金賞・奨励賞を受賞。昭和天皇崩御の直後の多忙で聴くことのできなかった新皇后美智子様からの要望で、番組スタッフがテープと記念CDを送られた。
1993年61歳 新日鉄音楽賞・特別賞を受賞。
1996年2月22日64歳 都内の自宅で脳内出血に倒れているところを、レッスンを受けに来た門下生が発見。26日午前、搬送先である練馬区内の病院で息を引き取る。

希代子死去に際し、(当時)皇后美智子様は、自ら庭で摘んだ草花で作った花束を「希代子さんの演奏は、私の心の支えでした」とコメントした。


田中希代子―夜明けのピアニスト

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