10月25日1825年【J.シュトラウスⅡ】

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ヨハン・シュトラウス2世
Johann Strauss II

[ 作曲家 / オーストリア ]
1825年10月25日-1899年6月3日 73歳没
ウィンナ・ワルツといえばシュトラウス。
『美しき青きドナウ』などで知られ「ワルツの父」と称されています。
『ラデツキー行進曲』は父ヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)の作曲です。弟のヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)も音楽家として活躍しました。


ヨハン・シュトラウス―(作曲家の物語シリーズ)

 

『美しき青きドナウ The Blue Danube Walt』
指揮:ズービン・メータ(1936-)
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

生涯

1825年 ウィーンの南に位置するザンクト・ウルリッヒに生まれる。
父は『ラデツキー行進曲』を作曲したヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)。
母がヨハンを身ごもったことが結婚のきっかけ、いわゆる授かり婚。

1830年6歳 36小節のワルツを作曲するなど音楽家としての才能に恵まれていたが、父は息子が音楽家になることに反対し、母親のサポートによりひそかに父ヨハンの楽団員からヴァイオリンを学んだ。
1842年17歳 父の希望通り大学の商学部に入学したが退学し、音楽に専念。教会のオルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラーに師事し、楽典などを学ぶ。
1843年18歳 デビューコンサートが成功を収め父のライバルとなる。この年、両親が離婚。父が若い女性と再婚したことから、息子に対する支配力が弱まる。

1849年24歳 父ヨハン1世が45歳で亡くなり、父の楽団を引き継ぐ。ハプスブルク家との結びつきを強め、宮廷での仕事も持つなど人気作曲家となる。
1853年28歳 この頃には、300人の器楽奏者を雇い、毎晩カフェや、レストランや、ダンス場の多くのオーケストラで演奏し、一日に6~7ヵ所で指揮をすることもあった。
1856年31歳 ロシアの鉄道会社と破格の報酬契約で、夏のシーズンにパヴロフスク駅舎で演奏会を指揮するようになる。演奏会には皇帝アレクサンドル2世一家が鑑賞したり、ロシア皇室の歓待を受け、戴冠式やその祝賀行事にも招待されるなど、シュトラウス家に莫大な富をもたらした。

1868年43歳 ロンドン演奏旅行が成功をおさめ名声が高まる。J.オッフェンバック(1819-1880)と出会い、オペレッタ作曲に興味を持つようになる。
宮廷舞踏会音楽監督を1871年1月に末弟エドゥアルトに譲り、最初のオペレッタ『インディゴと40人の盗賊』の作曲に集中し、作品は成功をおさめる。

1872年6月17日46歳 アメリカのボストンで開催された、アメリカ独立100周年の祝典をかねた世界平和記念祭および国際音楽祭に指揮者として招かれる。2万人の歌手が出演する巨大なコンサートで『美しき青きドナウ』を指揮するなど、ボストンとニューヨークでのコンサートに出演し、いずれも大成功をおさめる。

1872年夏46歳 バーデン=バーデンにて指揮者でありピアニストのハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)、作家リヒャルト・ジュネと知り合う。
プロイセン王ヴィルヘルム1世より「赤鷲」の勲章を受ける。
1874年4月5日48歳 リヒャルト・ジュネらが台本を手掛けたオペレッタ『こうもり』初演。ウィンナ・オペレッタの中でも最高峰とされる代表作となる。

『こうもり』

1894年69歳 音楽家生活50周年の祝賀行事が、ウィーン宮廷歌劇場やウィーン楽友協会などで盛大に開かれた。
1899年5月22日73歳 宮廷歌劇場で自作の喜歌劇『こうもり』序曲を指揮。最後の指揮となる。

G.マーラー(1860-1911)から、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲を委嘱されたが、未完のまま1899年6月3日肺炎により73歳で亡くなる。

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