10月6日1882年【K.シマノフスキ】

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カロル・マチエイ・シマノフスキ
Karol Maciej Szymanowski

[ 作曲家 / ポーランド ]
1882年10月6日-1937年3月29日 54歳没

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『交響曲第3番』”夜の歌”

生涯

1882年 ティモシュフカ(現ウクライナ領)に、裕福な大地主ポーランド貴族の家に生まれた。
両親とも芸術に対する造詣が深く、芸術家が集まるサロンのような家庭で、4人の兄姉妹はいずれも音楽家、画家、詩人になっている。
父親からピアノの手ほどきを受け、10歳で音楽学校入学。
1901年19歳 ワルシャワで、和声学、作曲、対位法を学ぶ。ここでアルトゥール・ルービンシュタイン(1887-1982/ピアニスト)、パウル・コハンスキ(1887–1934/ヴァイオリニスト)、グジェゴシュ・フィテルベルク(1879-1953/指揮者)、ルドミル・ルジツキ(1884-1953/作曲家)、アポリナール・シェルト(作曲家)5人の音楽家と出会い、ポーランドの若い音楽家の作品を出版、プロモートすることを目的とする音楽グループ「若きポーランド」を1905年に結成。

『ピアノソナタ第2番Op.21』
ピアノ:S.リヒテル (1959年演奏)

1914年32歳 ヨーロッパを旅し、ロンドンで同じ年に生まれたロシア出身のストラビンスキーに出会う。
第1次大戦勃発のため故郷ティモシュフカに戻り、古代宗教やイスラム、オリエントの勉強に没頭する。その成果で創作第2期の代表作となる1916年『交響曲第3番』を1916年に発表。同年『ヴァイオリン協奏曲第1番』を盟友コハンスキ(1887–1934)のために作曲。

1917年秋 レーニンを中心とした最左翼ボリシェヴィキの一団がシマノフスキ家を急襲し、美術品は略奪され、ピアノは池に投げ込まれた。この事件により経済的、精神的に落ち込みしばらく音楽から離れる。
ポーランドが独立宣言した翌年の1919年、ワルシャワに移住。
1921年39歳 パリでストラヴィンスキーと再会し、彼がピアノで演奏した『結婚』に衝撃を受け、以降民俗音楽に傾倒していく。

1927年45歳 ワルシャワ音楽院の院長に就任。改革を行おうとしたが守旧派と対立し、1932年辞任に追い込まれた。
辞任後は収入を得るためにピアニストとして活動する。

1937年3月29日54歳 貧困の中、肺結核に罹患し、転地療養のためにダボス、グラース、カンヌと各地を転々としたのち、ローザンヌにて亡くなる。
棺はポーランドに運ばれ、古都クラクフの「大天使ミカエルと聖スタニスワフの教会」の地下聖堂に、ポーランド歴代の芸術家や文人とともに安置されている。

作品

創作期は3期に分けられる。
【第1期】1908年にベルリンを離れるまでの時期。ショパン、ワーグナー、スクリャービン、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガーら中後期ロマン派の影響をうけた作風。
【第2期】イタリアやパリを拠点として地中海地方を旅行し、オリエンタリズムとストラヴィンスキーやドビュッシーの影響が混在する個性的な作風。代表作『交響曲第3番』。
【第3期】1919年祖国に戻り、民俗音楽の研究に傾倒した時期の作品。

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