9月13日1819年【クララ・シューマン】

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クララ・ヨゼフィーネ・ヴィーク・シューマン
Clara Josephine Wieck-Schumann

[ピアニスト・作曲家/ドイツ]
1819年9月13日-1896年5月20日 76歳没
作曲家ロベルト・シューマンの妻として知られる、19世紀に活躍した女性ピアニスト。
夫が亡くなって以降、彼の作品を広めようと演奏活動を行う中で、作品を尊重する形として当時一般的ではなかった暗譜での演奏を行いました。現在ほとんどのピアニストが暗譜で演奏することになったきっかけと言われています。

クララ・シューマン

生涯

1819年 ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。父はピアノ教師として名高くそのかたわら楽器製作と楽譜業も営んでいた。
1824年5歳 両親が離婚し、母親と離れ父親と暮らすようになる。父フリードリヒにピアノを習い始めるとすぐに楽才を示した。
1828年10月9歳 私的な演奏会を経て、ゲヴァントハウスでモーツァルト・ピアノ協奏曲のソリストを務めプロデビューを飾る。
同年、ロベルト・シューマン(1810-1856)がクララの父フリードリヒに師事するために住み込むようになる。フリードリヒのピアノ授業料は高く、その指導は厳しく過酷という評判だった。

1831年12歳 『ピアノのための4つのポロネーズOp.1』出版。
音楽界の中心であったパリへ父と演奏旅行を行う。パリではカルクブレンナー(1785-1849)、メンデルスゾーン(1809-1847)、ショパン(1810-1849)らと知り合い、パガニーニ(1782-1840)と再会するなど、多くの刺激を受けた。
1833年14歳 『ロマンス・ヴァリエOp.3』をロベルトに捧げ、ロベルトはその主題を用いて『クララ・ヴィークの主題による即興曲 Op.5』を作曲し、互いに恋愛感情をもつようになる。
1835年11月9日16歳 前年に第3楽章のみ初演された『ピアノ協奏曲 Op.7』が、クララ自身のピアノ、メンデルスゾーン指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって全曲初演。 1837年に出版。ロベルトがオーケストレーションを手助けした作品としても知られる。

『ピアノ協奏曲 Op.7 イ短調』
1837年9月13日 クララ18歳の誕生日に、父フリードリヒはロベルトとクララのが求めた結婚の承諾をせず猛反対したが、ふたりは婚約。
この年から翌年にかけてウィーン演奏旅行を行う。ウィーン皇帝の御前で演奏し、オーストリアで最も栄誉ある「王室帝室室内楽奏者」の称号を与えられ、皇帝から「天才少女」と呼ばれた。
1839年20歳 父の付き添いなく一人で二度目のパリ演奏旅行を行い、音楽家との交流や、ロベルトの作品を演奏して紹介するなど、実り大きいものとなった。
帰国後、結婚を反対する父を相手に裁判を起こす。

1840年9月12日 裁判所から結婚の許可が下り、21歳の誕生日の前日に30歳のロベルトと結婚。
1841年3月31日 結婚後初の演奏会を行う。1840年末から1854年6月までに10回妊娠し8人の子供を儲け、1840年代はヨーロッパ各地での演奏活動を継続し、多忙な生活を送る。
1843年24歳 父フリードリヒと和解。
1844年25歳 抑鬱状態であったロベルトの心身を回復させるために、一家でライプツィヒより空気が澄むドレスデンへ転居。

1847年以降、再発を続けるロベルトのサポートを行いながら、精力的な演奏活動と『ピアノのための3つのプレリュードとフーガ op. 16』『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲 op. 17』など、代表作となる作品を作曲。

1850年31歳 音楽監督としてロベルトが招かれたデュッセルドルフに転居。夫の指揮でオーケストラと共演するなど演奏活動や、ピアノの指導を行う。

1853年34歳 一家での転居先で仕事部屋を持ち、最後の作品群『ロベルト・シューマンの主題による変奏曲 Op. 20』『ピアノのための3つのロマンスOp. 21』『ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンス Op. 22』『6つの歌曲 Op. 23』などを作曲。
この年、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)と、20歳のヨハネス・ブラームス(1833-1897)に知り合う。ヨアヒムとは幾度も共演を重ねて信頼する音楽仲間となり、ブラームスはクララの生涯を通じて献身的に支え、クララはブラームスの作品を宣伝して広く普及させ、二人は人間的にも芸術的にも深くつながった「最高の友」となった。

1854年2月 ロベルトがライン川に投身自殺を図り、翌月、ボン近郊のエンデニヒの精神病院へ収容された。
家族の生活を維持するため、活発に演奏活動を行う。
1856年7月29日36歳 ロベルトが危篤となり約2年半ぶりに夫のもとで2日を過ごした翌日、1854年に生まれた末子が父に会うことがないまま、ロベルトが46歳で亡くなる。

当時は、F.メンデルスゾーン(1809-1847)の姉であるファニー・メンデルスゾーン(1805-1847)は600近い曲を作曲しながら両親から出版を反対され、一部は弟の名前で出版されたように、女性が作曲することに否定的だった。その時代にありながら、作曲を始めた9歳からロベルトが精神病院に収容される1855年まで、ピアノ曲、ピアノ協奏曲、室内楽、歌曲など50以上の曲を作曲し、その多くが出版され、女性作曲家としては異例とも言える成功をおさめた。

ロベルト亡き後、彼の精神病のイメージを払しょくするために、最晩年のほとんどの作品や彼の手紙の多くを廃棄した。そして彼の作品の普及にさらに尽力し、7人の子供を一人で育てるために、ヨーロッパ各地で演奏活動を行った。
1870年代、息子ルートヴィヒの精神病院入院し、息子フェルディナントが普仏戦争に徴兵され、さらに母、娘ユーリエ、父ヴィーク、息子フェーリクスが相次いで亡くなるなど、悲劇的状況にあった。しかし、ピアノを弾くことに癒されピアニストという身にいつも感謝していたという。

1877年58歳 ロベルトの作品全集の編纂を始める。
1878年59歳 フランクフルト音楽学校(現フランクフルト国立音楽大学)開校と共にピアノ科主任教授に就く(-1892)。当時、唯一の女性教授であった。
同年 デビュー50周年記念演奏会を盛大に行う。
1881年62歳 ロベルトの自筆譜や初版などを丁寧に精査し、ブラームスの協力もあり作品全集を1893年にかけて出版する。
1886年67歳 教育活動も熱心に行い『教育版 Instruktive Ausgabe』を出版。またロベルトの若い頃の手紙を編集し、『青年時代の書簡 Jugendbriefe』と題して出版。
1888年69歳 60周年記念演奏会を盛大に行なう。

1891年72歳 フランクフルトで最後の公開演奏会を行なう。
1896年5月20日76歳 コンサートを暗譜で演奏する習慣を作ったと言われ、リウマチと難聴に苦しみながら、最後まで私的な場で演奏し、即興し、ピアノを教え、編曲し、楽譜を編集し、 脳卒中のため世界最高のピアニストとして輝かしい演奏家人生を閉じた。

1897年4月3日 クララの死から1年も経たず、彼女を支え、自分のほぼ全作品をまず最初にクララに見せて意見を聞いてから出版していたブラームスが、クララの後を追うように63歳の生涯を閉じた。


音楽家の伝記  クララ・シューマン


真実なる女性 クララ・シューマン

欧州統一前のドイツ通貨100マルク札の肖像にクララ・シューマンを起用していた。

100 DM 表 (22K)

100 DM 裏 (19K)

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