7月7日1860年【G.マーラー】

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グスタフ・マーラー
Gustav Mahler

[ 指揮者・作曲家 / ボヘミア ]
1860年7月7日-1911年5月18日 50歳没

後期ロマン派を代表する音楽家。
彼の交響曲が長大で大編成であるためか、「難解な作曲家」「クラシックオタクが好む作曲家」というランキングに、A.ブルックナー(1824-1896)と1位争いをする作曲家です。ちなみに17歳のマーラー少年は、ウィーン大学でブルックナーの和声学の講義を受けています。完成された作品は交響曲と歌曲のみで、9つの交響曲のうち5曲に合唱や声楽が入っています。
生前は作曲家としての評価は高いものではなく、指揮者としてカリスマ的存在で、ヨーロッパとニューヨークで大活躍をしました。


「決定版 マーラー」 著・吉田秀和

 

生涯

「私は三重の意味で故郷がない⼈間だ。オーストリア⼈の間ではボヘミア⼈、ドイツ⼈の間ではオーストリア⼈、そして全世界の国⺠の間ではユダヤ⼈として」とマーラー自身の言葉が残っている。

1860年 オーストリア帝国ボヘミア(現チェコ)カリシュト村、ユダヤ系商人のもとに生まれる。
4歳の頃祖⽗⺟の家の屋根裏にあるピアノを⼀⼈で弾いていたり、軍楽隊が家の前を通った際に自分のアコーディオンを持ってついていき、⾏き着いた街中の市場にてアコーディオンを弾いてみせたなどというエピソードがある。また、聖歌隊に参加していた。
1870年10月13日10歳 幼少期から音楽の才能をあらわし、イーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演した。
1872年12歳 ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行う。
1875年15歳 音楽の道に進む事を父に反対されていたが、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。
1876年16歳 ピアノ四重奏曲(唯一現存する室内楽)を作曲。ウィーン楽友協会音楽院でピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞。
1877年17歳 ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学講義受講をきっかけに彼と交流が始まる。
1878年7月18歳 作曲の両部⾨で数多くの賞を受賞し、音楽院を卒業。
卒業後は指揮者として活動しながら、その合間に作曲活動に取り組む。
1880年11⽉20歳 作品番号1番をつけたカンタータ『嘆きの歌』作曲。
1881年21歳 ライバッハの劇場で楽⻑に就く。

その後、数多くの劇場の学⻑を転々とする。当時は作曲家への報酬である著作権料が低く、指揮者や演奏家としての活動が生活の糧だったが、この頃はブルジョワジーのシンボルとして各地に歌劇場が数多く建てられた時期で有能な指揮者マーラーは引く手あまたとなった。オペラハウスは現在とは違い、ボックス席で逢引が⾏われ、男性はバレリーナの品定めを⾏い、観客に混じって雇われたサクラが⼤声で喝采をあげるなどといった状況の中指揮活動を行っていた。当時唯⼀真面目な観客を迎えていたバイロイト祝祭劇場でマーラーが初めて鑑賞した際にはとても感動したという。
1883年9月23歳 カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。
1884年24歳 カッセルではワーグナーなどの作品演奏ができないことに不満を持ち、当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)に弟子入りを志願したが断られた。
同年6月、音楽祭でL.v.ベートーヴェンの『交響曲第9番』とF.メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮し、成功をおさめる。
1885年1月24歳『さすらう若者の歌』作曲。彼が片思いし失恋したソプラノ歌⼿ヨハンナ・リヒターに捧げられたもの。
同年 プラハのドイツ劇場の楽長に就任したが、生活は苦しかった。
1886年8月26歳 ライプツィヒ歌劇場楽長就任。プラハに続くヨーロッパ有数の歌劇場楽長の座を得て「登る階段はもうあまり多くない」と本人が語った。
この頃、ウェーバーの未完のオペラ『3⼈のピント』の補筆完成を依頼され、その依頼主ウェーバーの孫にあたるカール・フォン・ウェーバー⼤尉の妻マーリオンと不倫関係になっている。
1888年からヨーロッパ各地の指揮者を歴任する一方、交響曲第1番「巨人」など作曲を行う。


マーラー:交響曲第1番「巨人」

バーンスタイン指揮/NYフィル/1966年録音盤】 ジャン・パウルの小説に由来する副題『巨人』は、最終的にマーラー自身により削除された。

1888年10月28歳 建てられたばかりのブダペスト王立歌劇場芸術監督に就く。この頃、伝記『グスタフ・マーラーの思い出』の作者ナターリエ・バウアー・レヒナーと出会い、その後10年間プラトニックな恋愛関係にあった。
1889年1月28歳 R.ワーグナー『ラインの黄金』『ワルキューレ』初演し高い評価を得る。
1891年4月30歳 10年契約だったブダペスト王立歌劇場芸術監督を、方向性の違いから3年で辞し、世界トップレベルのハンブルク州立歌劇場の第一楽長となる。同僚となったハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)から指揮者として高く評価され懇意となる。
1894年2月33歳 H.v.ビューローが64歳で亡くなったことにインスピレーションを得て『交響曲第2番”復活”』終楽章に合唱を導入し、12月に書き上げる。演奏時間約80分のこの大作は、翌年マーラー自身の指揮で初演され、成功をおさめる。

『交響曲”復活”』(1894)
指揮:マリス・ヤンソンス(1943-2019)
コンセルトヘボウ管弦楽団

1896年36歳 指揮活動の傍ら夏休みに演奏時間100分の『交響曲交響曲第3番』作曲。合唱を伴う。
1897年5月36歳 ウィーン宮廷歌劇場(現ウィ―ン国立歌劇場)第一楽長に就任。10月には芸術監督となった。
就任直前の2月、ブダペストでユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。
1898年38歳 J.ブラームス(1833-1897)の生前からの推薦によりウィーンフィルハーモニーの指揮者、半年後には終身総監督に就任。
1901年4月40歳 ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーンフィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。
同年11月41歳 22歳のアルマにサロンで出会い、2週間後にプロポーズ。

1902年2月にアルマに宛てた書簡はよく知られている。「リヒャルト・シュトラウスの時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!」

1902年3⽉41歳 アルマと結婚。この時マーラーは多額の借金があり、アルマは妊娠3ヶ月だった。アルマは作曲家を目指していたが、結婚により作曲の筆を折った。
同年年夏42歳 1899年に作曲活動のために建てた南オーストリアのマイアーニックの山荘で『交響曲 第5番』を作曲。世紀が変わるこの時期は作曲家として絶頂期で、『交響曲 第4番』(1900)、『交響曲 第6番 ”悲劇的”』(1904)『交響曲 第7番』(1905)、『交響曲 第8番』(1906)などをこの山荘で完成させている

『交響曲 第5番』(1902)
指揮:アンドリス・ネルソンズ(1978-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1903年43歳 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与。この年、次女アンナ・ユスティーネが生まれる。
1904年4月43歳 A.シェーンベルク(1874-1951)とツェムリンスキー(1871-1942)がウィーンに設立した「創造的音楽家協会」の名誉会長となりシェーンベルクらを擁護した。シェーンベルクの作品が不評であったコンサートで、唯一最後まで拍⼿をし続けたという。

『交響曲 第8番』(1906)
指揮:サイモン・ラトル(1955-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1907年11月47歳 他都市での指揮活動が活発になりウィーン宮廷歌劇場での演奏の質が低下するなどの理由から辞任することとなり、引退公演を行う。
同年、⻑⼥マリア・アンナが、次⼥から猩紅熱が感染しジフテリアも併発、わずか4年8ヶ⽉で亡くなる。また、マーラー自身も⼼臓疾患がみつかる。
1907年12月47歳 メトロポリタン歌劇場から招聘され渡米。
1908年48歳 晩年の傑作『交響曲 大地の歌』作曲。6楽章の独唱付きで、マーラー死後の1911年にマーラーの弟子であるブルーノ・ワルター(1876-1962)指揮で初演された。

マーラー:大地の歌

【テノール】ヨナス・カウフマン
【指揮】ジョナサン・ノット/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
【録音】2016年6月、ウィーン、ムジークフェラインザール

『交響曲 大地の歌』(1908)
指揮:C.アバド(1933-2014)
テノール:ヨナス・カウフマン(1969-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2011年演奏)

1909年49歳 『交響曲 第9番』に着手し2カ月で完成させる。初演はマーラー死後1912年6月26日ウィーンにて、ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。
同年10月 ニューヨーク・フィルハーモニックの主席指揮者就任。

1910年4月49歳 ヨーロッパに帰る。この頃C.ドビュッシー(1862-1918)やP.デュカス(1865-1935)と会う。
同年8月50歳 妻アルマが建築家ヴァルター・グロピウスと恋愛関係になり(マーラー死後彼と再婚)、アルマとの関係修復を望み精神分析医フロイト(1856–1939)の診察を受ける。作曲活動をやめていたアルマへ彼女の作品出版を勧める。

1910年9月12日ミュンヘンにて『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、大成功をおさめる。
1911年2月50歳  ニューヨークで倒れ、感染性心内膜炎と診断される。ウィーンで死ぬことを望み、5月12日ウィーンに戻る。
同年5月18日50歳 『交響曲第10番』を未完のまま、敗血症で亡くなる。
最期の言葉は「モーツァルトル!(南ドイツ・オーストリアの⽅⾔で、モーツァルトの愛称系)」と言われる。長女マリア・アンナと同じ、ウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。

マーラーが50歳の時「今の人々は私の曲を理解できない。しかし50年後には私の音楽を理解する人が理解するであろう。」と語ったように、生前の作曲家としての評価は高くはなく、マーラー死後にヨーロッパではナチス・ドイツの台頭により、ユダヤ⼈であったマーラーの作品は全く演奏されなくなった。生誕100年を記念して、L.バーンスタイン(1918-1990)がニューヨーク・フィルと全曲録⾳をきっかけに再評価された。⽇本においては 1980 年頃から世紀末の作曲家としてマーラー・ブームが起こった。

マーラー死後、彼の晩年に三角関係となったグロピウスと再婚したアルマはグロピウスと別れ小説家ヴェルフェルと再再婚しアメリカ亡命。音楽サロンを主宰し、I.ストラヴィンスキー(1882-1971)、A.シェーンベルク(1874-1951)など、ヨーロッパからの多くの亡命作曲家が出入りした。また、アルマは1922年にマーラーの未完となった『交響曲第10番』の補筆を作曲家E.クルシェネク(1900-1991)に依頼した。彼は、マーラー夫妻の次女でアルマ同様恋愛遍歴で知られ、生涯5回結婚をしたアンナ・ユスティーネ21歳(1924年)時の2回目の結婚相手で、1年足らずで別れている。

『交響曲 第9番』(1909)
指揮:S・ラトル(1955-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団


グスタフ・マーラー―回想と手紙 (1973年)

伝記映画

マーラー [DVD]

【監督・脚本】ケン・ラッセル(1974年製作)日本公開は1987年。

マーラー 君に捧げるアダージョ
交響曲第4判、第5番、第10番のアダージョをバックにマーラーと妻アルマの、音楽に秘められた激しくも切ない愛の史実を、新たな解釈で描いら伝記映画。(2010年ドイツ・オーストリア)

【映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」 公式ガイドブック】

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