6月11日1864年【R.シュトラウス】

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リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス
Richard Georg Strauss

[ 作曲家・指揮者 / ドイツ ]
1864年6月11日 – 1949年9月8日 85歳没
「ワルツ王」と呼ばれ親しまれているシュトラウスとは別人。一族と血縁関係もありません。
映画『2001年宇宙の旅』で使用された『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1896年)はテレビなどの効果的な音楽としてよく使われています。
ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家のひとりで、交響詩とオペラの作品がよく知られており、いずれも演奏が難しい。
同世代のG.マーラー(1860-1911)のように、指揮者としても活躍しました。


Mozart: Symphonies Nos.40 & 41

交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき 』
指揮:G.ドゥダメル(1981‐)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

生涯

1864年 バイエルン王国ミュンヘンでミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者フランツ・シュトラウス(1822-1905)と、ビール醸造業者の娘のもとに長男として生まれる。幼少より父親から音楽教育を受け、早い時期から作曲を始めた。父はその後1871年ミュンヘン音楽大学教授、1873年宮廷音楽家の称号を受ける。
1867年3歳 ミュヘン宮廷歌劇場管弦楽団ハープ奏者アゥグスト ・トンボーにピアノを習い始める。
1872年8歳 ミュンヘン宮廷歌劇場管弦楽団コンサートマスターのベンノ・ワルターからヴァイオリンを習い始める。
1875年11歳 ミュンヘン宮廷楽長フリードリヒ ・ウイルヘルム・マイヤーに作曲を5年間学ぶ。スコアリーディングも心得た。
1876年12歳 初めての本格的な作品『祝典行進曲』を書く。
1881年17歳 『交響曲ニ短調』初演。
1882年18歳 ミュンヘン大学哲学科入学。1年で退学しベルリンへ移る。
1883年19歳 ライプツィヒ、ドレスデン、ベルリン等へ旅行しベルリンでマイニンゲン宮廷管弦楽団の楽長を務めていたハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)と知り会う。
マイニンゲン宮廷管弦楽団ミュンヘン公演で自作を指揮してデビュー。
1885年21歳 H.ⅴ.ビューローの後任としてマイニンゲン宮廷管弦楽団音楽監督就任。
1886年22歳 病気になり、音楽監督を辞任。イタリア旅行へ出かける。
1887年23歳 G.マーラー(1860-1911)と出会い、認められる。
1889年25歳 ワイマール宮廷歌劇場第二指揮者を務める(-1894)。
ワーグナー(1813-1883年)の妻コジマ(1837-1930)と知り会い、彼女が仕切っていたバイロイトで2年後に助手を務めるきっかけとなる。
11月11日 交響詩『ドン・ファン』 Op.20がワイマール宮廷オーケストラにより、彼自身の指揮で初演。それまでの保守的な作品から脱皮した革新的なこの作品は、成功をおさめ出世作となる。

『ドン・ファン Don Juan』
指揮:キリル・ぺトレンコ(1972-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1894年30歳 バイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮。この時エリザベート役でバイエルンの将軍アドルフ・デーアーナの娘であるソプラノ歌手パウリーネと恋に落ち、9月に結婚。シュトラウスの歌曲のすぐれた歌手として活躍するが彼女の激しい性格から、恐妻家シュトラウスの「悪妻」として名高い。しかし後の創作活動において、彼女の存在が彼のインスピレーションや意欲に良い影響を与えた。

1896年32歳 ミュンヘンの宮廷歌劇場第一楽長となったこの年、シュトラウス没後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき Also sprach Zarathustra』を作曲し、11月27日作曲者指揮で初演。賛否両論に分かれ、評論家E.ハンスリック(1825-1904)や作曲家H.ヴォルフ(1860-1903)は非難し、作家ロマン・ロラン(1866-1944)や指揮者ニキシュ(1855‐1922)は評価した。
1898年34歳ドイツ音楽家組合結成。ベルリン第一宮廷楽長に就任し(-1918)、オペラの指揮者として活躍する。
同年 最後の交響詩『英雄の生涯 Ein Heldenleben』を作曲。

交響詩『英雄の生涯』
指揮:A.ネルソンズ(1978‐)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1903年39歳 ハイデルベルク大学名誉哲学博士号を贈られる。
1904年40歳 アメリカ演奏旅行。前年に作曲した『家庭交響曲Symphonia DomesticaOp.53』をカーネギーホールでの初演を指揮。シュトラウス自身の家庭の様子を曲にしたとも言われる作品で、第4部では、実生活を思わせる子どもの教育方針を巡ってシュトラウスと妻が激しく言い争うところから和解に至るまでが音楽で表現されていて、バイオリンの音がヒステリックに盛り上がっていくところなどは、まさに夫婦喧嘩そのもの。

『家庭交響曲』

1905年41歳 オペラ『サロメ Salome』初演。聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンなど上演禁止とする劇場が出るなど空前の反響を呼んだ。マーラーをはじめ前衛的な内容に共感した作曲家も多く、オペラ作曲家として評価を確立していく。

『サロメ』

1906年42歳 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団をはじめて指揮。
1908年44歳 ベルリン・フィルハーモニー音楽総監督就任。
1909年45歳 ベルリン芸術アカデミー会員に選出。
1911年47歳 オペラ『ばらの騎士 Der Rosenkavalier』初演が大成功をおさめる。
詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874-1929)と協力し1909年に初演された最初のオペラ『エレクトラ』での多調、不協和音の使用など前衛的な手法を、さらに推し進めたホーフマンスタールとの第2作目。ホーフマンスタールとは彼が亡くなるまで共作を続けた。

『ばらの騎士』第3幕
メトロポリタンオペラ

1914年50歳 オックスフォード大学名誉博士号授与。
1917年53歳 ベルリン高等音楽院作曲家マイスター・クラス主任教授を務める(-1920)。
1919年55歳 ウィーン国立歌劇場音楽監督(-1924)。オペラ『影のない女』初演。
同年より1924年まで、ウィーン国立歌劇場総監督をつとめる。
1921年57歳 ドナウエッシンゲン音楽祭名誉委員長。
1923年59歳 ウィーン芸術アカデミー名誉会員
1933年69歳 ナチスがドイツの政権を取り、ナチスに抗議してキャンセルしたトスカニーニ(1867-1957)の代役でバイロイト音楽祭で『パルジファル』指揮。
11月にはナチスに請われて第三帝国音楽局総裁に就く(-1935)。
ナチス政策のユダヤ人迫害により、多くのユダヤ系音楽家が歴史から抹殺された。

1935年71歳 当局からユダヤ系のメンデルスゾーン(1809-1847)『真夏の夜の夢』に代わる同名の作品を作曲するよう要請されたり、この年に作曲したユダヤ系のツヴァイクの台本によるオペラ『無口な女 Op.80』に対する不興などから当局と対立し、ナチスの音楽局総裁辞任。
1936年72歳 『オリンピック賛歌』がベルリン・オリンピック(1936年8月1日-8月16日)にて演奏される。

『オリンピック賛歌』

第二次世界大戦(1939-45)中もドイツに留まっていた。

1940年76歳 日本の紀元2600年祝いのために日本政府から委嘱され『皇紀2600年祝典曲Festmusik zur feier des 2600jährigen Bestehens des Kaiser-reiches Japan Op.84』が東京で演奏される。

『皇紀2600年祝典曲』

1942年10月78歳 21作目にして最後のオペラ作品となる『カプリッチョ』初演。

『カプリッチョ Capriccio』final
伯爵令嬢:ルネ・フレミング(1959‐)

1945年81歳 第二次世界大戦終戦後は、ナチスに協力したという理由で戦犯裁判にかけられたことから活動を控える。裁判は無罪となった。
1947年83歳 オーストリア市民権を得る。10月トーマス・ビーチャム・コンサートに招かれイギリス訪問し指揮。
1949年7月13日85歳 バイエルン放送交響楽団指揮。最後の指揮となる。
8月心臓発作を起こす。
9月8日14時10分 60年にわたり、器楽作品とオペラの両方に多くの代表作を創作し続け、活発な指揮活動を送った音楽人生を閉じた。
葬儀では故人の遺志によりオペラ『ばらの騎士』第3幕から終幕部分の三重唱が歌われた。

指揮をするシュトラウス(1944年)


リヒャルト・シュトラウスの「実像」―書簡、証言でつづる作曲家の素顔

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