6月9日1886年【山田 耕筰】

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山田 耕筰
やまだ こうさく

[作曲家・指揮者/日本]
1886年(明治19年)6月9日-1965年(昭和40年)12月29日 79歳没
2020年3月に急死した志村けん氏が、俳優として最後に演じたNHK「エール」(2020年)小山田耕三のモデル。日本の音楽界を語るなら、この人をまず知ろう。
日本の西洋音楽の分野で、初めて本格的な活動を行った作曲家、指揮者。日本初の管弦楽団をつくるなど、大正から昭和の時代にかけて創作と演奏の両面にわたり日本における西洋音楽の普及に大きく貢献し、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家。
北原白秋の詩による「からたちの花」「この道」「待ちぼうけ」「砂山」や,三木露風の詩による「赤とんぼ」など、日本語の抑揚を生かした自然で美しい歌曲を数多く残した。

赤とんぼ」で有名な山田耕筰の素顔、前衛芸術家であり指揮者としても ...

生涯

1886(明治19)年 東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)の旧板倉藩士、医師の父の下に生まれる。
1896年10歳 父が亡くなる。父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。
1899年13歳 姉を頼り岡山の養忠学校に入学し、姉の夫エドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうける。
1904年18歳 東京音楽学校予科入学、
1908年22歳 東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。
1910(明治43)年24歳 音楽愛好家であった三菱財閥の総帥岩崎小弥太(1879-1945)の援助でドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学。伝統的なドイツ音楽の作曲を3年間学び、その間の1912(大正元)年には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲。

交響曲『かちどきと平和 Triumph and Peace』

1914年28歳 岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者に就任。1915年1月から帝国劇場で公演を開始したが、既婚の山田の不倫問題(のちにその女性と再婚)に岩崎が激怒し、資金源を断たれ同年2月に解散となった。
1917年31歳 渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。
1920年12月34歳 帝国劇場においてR.ワーグナー『タンホイザー』の一部など日本初演。
1923年9月1日 関東大震災が起こる。
1924年38歳 近衛秀麿(1898-1973)と共に「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。
1926(大正15)年1月39歳 第1回定期演奏会を開き、6月まで12回の演奏会を開いた。しかし、9月8日に近衛が、不明瞭な経理などを理由に大部分の楽員を連れて協会脱退を宣言し「新交響楽団」(現NHK交響楽団)を組織。残ったのは黒柳徹子の父である黒柳守綱ら4名のみとなり山田派は崩壊した。当時100円の儲けを山田が50円、残りの楽員全員で50円(平均で1人1円程度)としていたことに楽員が不満を持ったことも原因のひとつとも言われている。

1926年40歳 茅ヶ崎町(現神奈川県茅ケ崎市)に居を構え、オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起。「赤とんぼ」「からたちの花」など数々の童謡名曲を作曲。童謡の作曲は、関東大震災で被災した子供たちを元気づけるためでもあった。

1929年12月43歳 歌舞伎座における日本楽劇協会第二回公演で、最初のオペラ『堕ちたる天女』初演。
1930(昭和5)年44歳 同姓同名の人物が多く、それゆえのトラブルが頻発していたことを改名の理由の一つに、耕作から耕筰へと改名。
1931年ごろ 近衛と和解し、黒柳らも新響に合流した。(その4年後には近衛が新響を追い出された)
1936年50歳 レジオンドヌール勲章受章。
1937年51歳 相愛女子専門学校(現・相愛大学)教授に就任。
1940年54歳 戦時体制が色濃くなる中「演奏家協会」を発足させ、会長に就任。同年11月オペラ「黒船」(当初の題名は「夜明け」)初演。形式上山田が指揮をしたが、実際は朝比奈隆が指揮をした。
1941年55歳 情報局管轄下に「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任(1944年に会長就任)。また音楽挺身隊を結成し、将官待遇で占領地での音楽指導に携わる。この時軍服姿で行動したため、終戦後に「戦犯論争」の槍玉に挙げられる。
1942年56歳 帝国芸術院会員に選出。
1948年62歳 脳溢血で倒れ、左半身不随となる。

1950年64歳 日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。
1955年に公開された映画「ここに泉あり」(監督:今井正)に本人役で出演している。

1956年70歳 文化勲章を受章。
離婚、再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。

管弦楽曲・室内楽曲などの作品は未出版のものが多く、自筆譜のほとんどは戦災により焼失してしまったため筆写譜としてしか保存されておらず、出版・演奏の機会がほとんどないものが多い。1997年に春秋社から作品全集(既刊12巻)の第1巻として初めて管弦楽曲のスコアが出版され、近年になって日本楽劇協会監修の下、一部の楽譜の校訂およびレンタル譜の製作が行われている。
詩人北原白秋とともに数多くの国民的歌謡曲、校歌、歌曲の作曲の他、ピアノ曲、舞踊詩、劇音楽を創作。北原白秋らと雑誌『詩と音楽』を共同創刊、演出家・小山内薫と劇団「土曜劇場」、「新劇場」を結成・活動し、20世紀前半の日本の芸術界全般に大きな影響を及ぼした。


山田耕筰 ピアノ作品全集

1965年11月79歳 聖路加国際病院に入院中、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日退院し成城の自宅へ。12月29日、自宅で心筋梗塞により亡くなる。

2019年 北原白秋の波乱に満ちた半生を山田耕筰との友情とともに描いた映画『この道』が公開された。

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