5月22日1813年【R.ワーグナー】

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ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー
Wilhelm Richard Wagner

[ 作曲家 / ドイツ ]
1813年5月22日 – 1883年2月13日 69歳没
「楽劇王」と呼ばれるロマン派歌劇の頂点とされ、音楽界以外にも19世紀ヨーロッパの精神文化に多大な影響を及ぼしています。
彼の音楽に心酔する人をワグネリアンと呼び、彼以降の作曲家は良くも悪くもその作品に影響を受けています。その作品の多くは壮大で、長大、テーマは普遍的で奥深いので、大人向けの音楽です。
借金と女性関係に苦しむ波乱に富んだオペラさながらの人生を送りました。


ワーグナー:オペラ全集

 

生涯

1813年 ザクセン王国ライプツィヒに生まれる。
生後6ヶ月で父が病死。
1814年1歳 母が再婚。一家はドレスデンへ。自宅で演奏会を開くなど音楽好きな家庭で幼時から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽を生業とした。一家と親交があったC.ウェーバー(1786-1826)から強い影響を受ける。
1821年8歳 養父が亡くなる。
1822年9歳 聖十字架学校に入学。
1826年13歳 ギリシャの古典やシェークスピアに親しむ。
1828年15歳 ベートーヴェンの音楽に感動し、音楽家を志す。劇作にも関心を持ち、のちに独自の芸術を生み出す原動力となる。
1831年18歳 ライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退。聖トーマス教会のカントル(キリスト教音楽の指導者)だったヴァインリヒに和声学、対位法、作曲を師事する。
1832年19歳 ベートーヴェンの影響が濃い唯一の交響曲『交響曲第1番ハ長調』を作曲。最初の歌劇『婚礼』の作曲を始めるが、未完のままとなる。
1833年20歳 ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となる。歌劇作曲家を目指したが、貧困に苦しみ遍歴時代の始まりとなる。
1834年21歳 最初の論文『ドイツのオペラ』を匿名で流行界新聞に発表し、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じている。

この頃、女優のミンナ・プラーナーと恋愛関係になり、1836年にミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへ赴き、同地で結婚。しかし、独占欲が強いワーグナーに対し、ミンナは幾度も恋人と駆け落ちし、1837年5月彼のもとを去った。
1839年26歳 ロシアの地方都市リガの劇場を解雇され、債権者から逃れてロンドンへ密航する。この際暴風に襲われ『さまよえるオランダ人』の原型となった。
1840年27歳 『パリ音楽時報』に寄稿を開始。
ドイツの音楽について、ドイツ国はいくつもの王国や選帝侯国、公国、自由帝国都市に分断され、音楽家も地域的なものにとどまっていることを嘆きながらも、モーツァルトのように、外国のものを普遍的なものに創造する力があると論じている。同年、ドイツ愛国運動「ライン危機」がドイツで広がり「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれらに共感しなかった。

 

1842年29歳 認められることのなかった第1次パリ滞在を経て、完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)で初期の大作オペラ『リエンツィ』(1840)の初演に立ち会うためにドレスデンへ戻る。公演は大成功をおさめ、ようやく注目されるようになった。
1843年30歳 王室ザクセン宮廷指揮者に就任。
1844年31歳 イギリスで1826年に客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典において演出を担当。尊敬するウェーバーのために葬送行進曲と彼を讃える合唱曲の作詞作曲、追悼演説も行った。
1845年32歳 『タンホイザー』作曲、初演。当初の評判は芳しくなかった。

 

1846年33歳 当時演奏されることがほとんど無かったベートーヴェン『交響曲第九番』を猛反対を押し切って公演し、大成功をおさめる。以後『第九』は評価が定着した。
1847年34歳 ザクセン王立楽団の労働条件の改善や団員の増強などの要求が通らず指揮者を辞任。

1848年35歳 3月にドイツ三月革命が起こる。6月「美しく自由な新ドイツ国を建設して、人類を解放すべきである」と演説した。『ローエングリン』作曲。母が亡くなる。
1849年36歳 ドレスデン蜂起に参加。失敗したため指名手配され、F.リスト(1811-1886)を頼りスイスへ亡命。チューリッヒで9年間を過ごす。
亡命中にゲルマン神話を研究し、1853年40歳 『ニーベルングの指環』4部作の台本を1853年に私費出版、序夜『ラインの黄金』(1854)、 第1夜『ワルキューレ』(1856)を完成させ、「楽劇」の理論を構築し論文にした。
1850年37歳 『ローエングリン』(1848)がリストの尽力によりヴァイマルで初演される。ワーグナーが『ローエングリン』を初めて聴いたのは、1861年ウィーンだった。

”ローエングリン Lohengrin”『婚礼の合唱』

「ユダヤ主義の重圧からの解放」を論じ、ユダヤ人への罵詈雑言をリストに述べるようになった一方で、ユダヤ人奏者を起用するなど庇護した。

この時期、複数の女性と交際しており、特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデと恋に落ち、ミンナとは別居した。この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲した。しかしこの不倫によってチューリヒにいられなくなり、1年余りヴェネツィア、ルツェルン、パリを転々とすることになる。

1855年42歳 ロンドンを訪れ、途中パリ万国博覧会を見学。
1857年44歳 ヴェーゼンドンク邸に隣接する避難所アジールに移住。
1858年45歳 イタリアのヴェネツィアへ。
1859年46歳 半年間ルツェルンに滞在し『トリスタンとイゾルデ』を完成させる。
1860年1月46歳 パリでワーグナー作品演奏会が実施される。ベルリオーズ(1803-1869)、マイアーベア、グノー(1818-1893)らが来場した。
同年、ザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可される。
1861年48歳『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行。
1862年49歳 恩赦によってザクセンも入国可能になる。ウィーン音楽院で教鞭を取る。

1864年51歳 ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルードヴィヒ2世にミュンヘンへ招聘され王宮で謁見する。
1865年52歳 『トリスタンとイゾルデ』初演。
政治的スキャンダルと、リストの娘でワーグナーの支持者であった指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)の妻だったコジマとのスキャンダルが重なり、ミュンヘンからスイスのルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に移住。
コジマにはビューローとの間に2人の子がいたが、ワーグナーの娘イゾルデを産む。ワーグナーの正妻ミンナが1866年に病死したのち、コジマはビューローと離婚して1870年にワーグナーと再婚。それによりビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー派と敵対していたブラームス派に加わった。

”トリスタンとイゾルテ Tristan und Isolde”『愛の死』

1866年53歳 別居中の妻ミンナの急逝後、ルツェルン郊外トリープシェンに移住しコジマも同居。
1868年55歳 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』ミュンヘンで初演。

1867年54歳 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し、1868年6月21日ビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演される。

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第3幕前奏曲
指揮:D.バレンボイム(1942-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1869年56歳 ミュンヘンでワーグナーの意志に反し『ニーベルングの指環』序夜『ラインの黄金』初演。

”ラインの黄金Das Rheingold” 第4場
『ヴァルハラ城への神々の入場 Einzug der Götter in Walhall (Entrance of the Gods into Valhalla)』
指揮:ズービン・メータ(1936-)

1870年57歳 ミュンヘンでワーグナーの意志に反し『ニーベルングの指環』第1夜『ワルキューレ』初演。

”ワルキューレ Die Walküre”第3幕前奏曲
『ワルキューレの騎行 Ride of the Valkyries』
メトロポリタンオペラ

1970年コジマと正式に結婚。
この年のコジマの誕生日12月25日にワーグナーの友人達で初演した『ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、現在でも歌劇以外の作品としてはよく知られた作品である。

『ジークフリート牧歌』
指揮:S.ラトル(1955-)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1871年58歳 ドイツ帝国で宗教同権法が施行され、反ユダヤ主義運動が高まったが、ワーグナーは反ユダヤ主義に同調せず、ユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を批判した。
同年 『ニーベルングの指環』第2夜『ジークフリート』完成。バイロイトを訪れ、祝祭劇場建設を決意。
1872年59歳 バイロイトに移住。ルートヴィヒ2世の援助で、念願だった自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場定礎式。 同日、辺境伯劇場での記念演奏会でベートーヴェン『交響曲第9番』を指揮。
1874年61歳 私邸バーンフリート完成。『ニーベルングの指環』第3夜『神々の黄昏』が完成したことにより、35歳から26年かけて作曲し、上演に約15時間を要する『ニーベルングの指環』4部作が完結。
1876年8月13日63歳 完成したバイロイト祝祭劇場の初めての上演として、第1回バイロイト音楽祭が開かれ『ニーベルングの指環』4部作が初演された。ワーグナーにとって失望するもので、再演を切望したが、多額の負債のため生前には果たせなかった。

『ジークフリート Siegfried』第3幕前奏曲

“神々の”黄昏 Götterdämmerung”第3幕
『ジークフリートの葬送行進曲 Siegfried’s death and Funeral march』
指揮:クラウス・テンシュテット(1926-1998)
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団

『神々の”黄昏 Götterdämmerung』Final scene
指揮:ロリン・マゼール(1930-2014)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団


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1881年68歳 11月から翌年4月までパレルモ、ナポリ、ヴェローナ、ヴェネツィアに滞在。パレルモでルノワールのモデルとなる。

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ルノワール(1841-1919)《リヒャルト・ワーグナー》1882年油彩、カンヴァス 51.3×44.7cm

1882年69歳 最期の作品、舞台神聖祝典劇『パルジファル』完成。祝祭劇場で初演。ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じた。

同年12月 クリスマスに、ラ・フェニーチェ劇場で『交響曲ハ長調』を指揮。生涯最後の指揮となる。
1883年2月13日69歳 ヴェネツィア滞在中のヴェンドラミン館で論文『人間における女性的なるものについて』執筆中に、以前から患っていた心臓発作により波乱万丈の人生を閉じた。亡骸はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。


ワーグナー (作曲家・人と作品シリーズ)

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