3月19日1917年【D.リパッティ】

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ディヌ・リパッティ
Dinu Lipatti

[ピアニスト・作曲家/ルーマニア]
1917年3月19日 – 1950年12月2日 33歳没
コルトーに認められ、洗練された技術と音楽性で多くの人に感動を与えたがわずか33歳で病死した、伝説的なピアニスト


ディヌ・リパッティ 伝説のピアニスト夭逝の生涯と音楽

ショパン:ノクターン Op.27-2、練習曲 Op.25-5、練習曲 Op.10-5「黒鍵」(1950年2月)

生涯

1917年 ルーマニアのブカレストに、サラサーテなどに師事したアマチュアヴァイオリニストの父とピアニストの母の間に生まれた。
1921年4歳 ピアノを始め、フロリカ・ムジチェスクに師事。
1925年8歳 ブカレスト音楽院に入学。
1933年16歳 ウィーン国際ピアノコンクール第2位。この時、審査員のA.コルトー(1877-1962)が結果に抗議して辞表を提出した。
1934年17歳 コルトーに招かれパリで学ぶ。ピアノをコルトー、指揮をC.ミュンシュ( 1891-1968)、作曲をナディア・ブーランジェ(1887–1979)に師事。
1936年19歳 本格的デビュー。またたく間に名声を博した。

リパッティ:左手のためのソナチネ(1941)
ピアノ:リパッティ

1943年26歳 ナチスによるパリ侵攻をきっかけに、9歳年上で既婚者だったマドレーヌと共にスイスへ亡命。ジュネーブに定住する。(亡くなる前年の1949年に結婚)ジュネーヴに着いた時の全財産がたった5フランだった。
1944年27歳 ジュネーブ音楽院でピアノ科の教授に就く。

バッハ=ヘス:コラール「主よ人の望みの喜びよ」(1947年演奏)

1948年4月31歳 カラヤン(1908-1989)指揮フィルハーモニア管とシューマン『ピアノ協奏曲』を録音。1967年に放映された「ウルトラセブン」最終回で、主人公モロボシ・ダンがアンヌに自分がウルトラセブンであることを告白する場面に使用されている。音楽を担当した作曲家である冬木透によれば「あとのない切迫した感覚がこの作品とこの演奏しかない」と選んだという。

シューマン:ピアノ協奏曲 Op. 54
ピアノ:リパッティ
指揮:H.v.カラヤン
フィルハーモニア管弦楽団(1948年4月演奏)


シューマン&グリーグ:ピアノ協奏曲ウルトラセブン50th&リパッティ100th

同時期にジュネーブに亡命した同じルーマニア出身のピアニスト、クララ・ハスキル(1895-1960)とは一緒に演奏会に出演し、頻繁にやりとりをした手紙では「あなたの才能がうらやましくてならない」と書いている。
彼の音楽は、奇をてらうことなく透明な音色でピアノを最大限に歌わせ、高貴で洗練されている。ショパンモーツァルトなどを得意とし、ショパンのワルツ集は現在でも絶品とされている。

ショパン:ワルツ Op.64-2(1950年演奏)

ショパン:バラード第4番

1947年30歳 リンパ肉芽腫症と診断される。翌年には病気が進行し、演奏会はままならず、病状が好転した時に録音を行った。
1950年33歳 多くの音楽家達の寄付で、新薬コーチゾンの投与が始まり、二ヶ月あまり病状が快復した時、レコーディング・スタッフがロンドンから駆けつけ、7月ジュネーヴでショパンのマズルカや、バッハのコラール前奏曲のピアノ編曲版を録音。
1950年9月 彼の最後にして伝説のコンサート、フランスのブサンソン音楽祭で演奏する。
彼の余命が残り少ないことを知る聴衆を前に、「まるでゴルゴダの丘に向かうイエス・キリストのようだった」と妻が述懐するほどのひどい体調で、途中で体調不良のためショパンのワルツを弾ききれず、いったん控え室で注射を受けて再び舞台に上がり、バッハ、モーツァルト、ショパンを演奏した。

告別演奏会(ブザンソン1950年9月)


ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル

1950年12月2日33歳 亡くなる。
亡くなる数十分前、最後に聴いたのはベートーヴェンの弦楽四重奏曲 11番だったという。


Dinu Lipatti:CD7枚組

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