9月1日1935年【小澤 征爾】

クラシック音楽情報LuckOn
音楽家の誕生日 一覧

小澤 征爾
おざわ せいじ

[指揮者/日本]
1935年9月1日 -2024年2月6日 88歳没

いわずもがな、世界に誇る日本人指揮者

 

ヒラサオフィスHPより]

1935年、中国のシャンヤン(旧奉天)生まれ。幼いころからピアノを学び、成城学園中学校を経て、桐朋学園で齋藤秀雄に指揮を学んだ。
1959年、ブザンソン指揮者コンクールで第1位を獲得。当時ボストン響の音楽監督であり、このコンクールの審査員であったシャルル・ミュンシュに翌夏タングルウッドに招かれた。その後、カラヤン、バーンスタインに師事、ニューヨーク・フィル副指揮者、シカゴ響ラヴィニア・フェスティバル音楽監督、トロント響音楽監督、サンフランシスコ響音楽監督を経て1973年にボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任、アメリカのオーケストラ史上でも異例の29年という長期にわたって務め、アメリカ国内はもとより国際的に世界最高のオーケストラのひとつに育てた。
1978年には、中国政府の公式招待により、中国中央楽団と1週間にわたって活動したのをはじめ、1年後の1979年3月にはボストン響を率いて再度訪中し、演奏活動に加えて、中国音楽人の指導・学習、並びに討論会など、意義深い音楽・文化交流を果たした。それ以来、中国とは深い関係を築いている。
2002年秋には、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、2010年春まで務めた。
ヨーロッパでの評価と人気は絶大なものがあり、これまでにベルリン・フィル、ウィーン・フィルをはじめとする多くのオーケストラ、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座など主要オペラハウスに出演している。
日本においては、1992年より始めた国際的音楽祭“サイトウ・キネン・フェスティバル松本”、実践を通して若い音楽家を育成するための“小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト”(2000年より)、および“小澤征爾音楽塾オーケストラ・プロジェクト”(2009年より)を中心に活動を展開、新日本フィル、水戸室内管の指揮台にも登場している。
また、長年にわたり奥志賀高原で弦楽四重奏をテーマとした室内楽勉強会を主宰してきたが、2005年にはスイスにヨーロッパにおける音楽学生を対象にしたSeiji Ozawa International Academy Switzerlandを設立、さらに、2011年には、アジア圏の優秀な学生に門戸をひろげるためNPO法人小澤国際室内楽アカデミー奥志賀を設立、教育活動に力を注いでいる。
これまでに国内外で数多くの賞を受賞、その中には、オーストリア勲一等十字勲章(2002)、サフランス・レジオン・ドヌール勲章オフィシエ(2008)、フランス芸術アカデミー外国人会員(2008)、日本国文化勲章(2008)、イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞(2008)、ウィーン・フィル「名誉団員」の称号(2010)、ケネディアワード(2015)などがある。


ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」

新日本フィルハーモニー交響楽団
1972年、フジサンケイグループが経営不振により専属オーケストラであった日本フィルハーモニー交響楽団を解散宣言をした後、楽員による自主運営のオーケストラとして新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。楽団成立と指揮者として中心的な役割りを果たした。1991年名誉芸術監督、1999年9月桂冠名誉指揮者に就任。

[タングルウッド]
タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して電気メーカーNEC、ソニー元社長の大賀典雄などの援助により“SEIJI OZAWA HALL”が建設された。

[長野オリンピック]
1998年長野オリンピックでは音楽監督を務めた。世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式において、ベートーベン第九を指揮。。開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結んだ。

演奏直後に行われた航空自衛隊「ブルーインパルス」による演目の開始時間は、1秒の狂いも許されなかったが、小澤の『第九』の指揮が何度演奏しても正確であったことから、『第九』の演奏開始時間を目安にし、見事成功させた。

[家族]
ピアニストの江戸京子と離婚後、ファッションモデル兼デザイナー入江美樹(小澤・ベラ・イリーン)と再婚。娘である小澤征良はエッセイスト、息子の小澤征悦は俳優。弟の小澤幹雄は俳優でテレビ・リポーターである。 兄の小澤俊夫は「小澤昔ばなし研究所」を主宰する口承文芸学者で筑波大学名誉教授。小澤俊夫の息子である甥の小沢健二はミュージシャン。

[N響事件]
1962年、NHK交響楽団と半年間を客演指揮者として契約。11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された直後、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。小澤は12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴えた。
この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展したが、1963年1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し和解が成立。1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たしている。

公式ホームページ

2024年2月6日 東京都内の自宅にて、心不全により亡くなる。享年88歳。

クラシック音楽情報LuckOn

 

関連記事

  1. 1月11日1856年【C.シンディング】

  2. 3月4日1678年【A.ヴィヴァルディ】

  3. 1月5日1920年【A.B.ミケランジェリ】

にほんブログ村 クラシックブログへ

error: Content is protected !!