3月14日1681年【G.P.テレマン】

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ゲオルク・フィリップ・テレマン
Georg Philipp Telemann

[作曲家/ドイツ]
1681年3月14日-1767年6月25日 86歳没
バッハ(1685-1750)、ヘンデル(1685-1759)の友人で、存命中は3人の中でもっとも人気と名声を誇っていた後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家です。
オルガン、ハープシコード、リコーダー、リュートなど多くの楽器の奏者としても活躍し、長命によって長い作曲活動を行い、ギネスブックで「クラシック史上最も多くの作品を発表」と認定されています。


Telemann EDITION BOX 50CD

『食卓の音楽 Tafelmusik』より


生涯

1681年3月14日 ドイツ東部マクデブルクでルター派プロテスタントの伝道師ハインリヒ(1646-1685)を父に生まれる。父は3歳で亡くなり、母に育てられた。
小学校時代、ヴァイオリン・リコーダー・ツィターなどを演奏し、10歳で同地のギムナジウムで、カントルからドイツの詩や文学などを学ぶ。
1693年12歳 初めてのオペラを作曲し、神童と呼ばれる。
1701年20歳 音楽の道へ進む事を反対する母の意向によりライプツィヒ大学で法学を学ぶ。そのかたわら、学生と市民からなる楽団コレギウム・ムジクムを統率した。
この頃、オルガニストとして名を成していた4歳年下のヘンデル(1685-1759)と知り合い、終生交友が続いた。ヘンデルはロンドンから様々な珍しい植物を彼宛に送っていたという。また『食卓の音楽』を出版する際、予約者の最初の方にヘンデルの名が入っている。
1704年23歳 プロムニッツ伯爵の招きで現ポーランド領ルブシュ県のゾーラウ(現ジャルイ)の宮廷楽長に就く。伯爵が好むフランス風管弦楽組曲を2年間に200曲も作曲する。
大北方戦争(1700-1721)の影響で職を離れる。
1708年27歳 アイゼナハの宮廷に招かれ宮廷秘書の立場で宮廷礼拝堂楽団を組織する。
この時期、ヴァイマルの宮廷オルガニストを務めていたバッハ(1685-1750)と知り合う。当時テレマンより評価が低かったバッハを尊敬し、終生交友を続けた。
1709年28歳 アマーリエ・ルイーゼ・ユリアーネと最初の結婚。1年あまりで娘が生まれたが直後に妻は亡くなる。
1712年31歳 フランクフルト・アム・マイン市の音楽監督、2つの教会において教会楽長に就任。また、アイゼナハからの任命で、教会と宮廷のための作品を作曲した。

『トランペットとヴァイオリン、チェロのための協奏曲 Concerto in D major for Violin, Cello, Trumpet and Strings ニ長調 TWV 53:D5』

1721年40歳 ハンブルク市の音楽監督に就きハンブルクに移住。1767年に亡くなるまでその地位にあった。
1722年41歳 ハンブルク市の歌劇場が再建され、その音楽監督と歌劇の作曲も引受ける。
その後、亡くなるまでの46年間ハンブルク市音楽監督として、オペラ、コンサート、教会音楽の演奏や出版を次々と行い、ヨーロッパで高い人気と名声を得た。
同年 ライプツィヒ聖トーマス教会の次期楽長にテレマンに依頼したが断られたため、仕方なくバッハを招聘したという記録があり、当時はバッハより評価が高かった。
1726年45歳 バイロイト宮廷からも楽長に任命され、歌劇を毎年、他に器楽作品を提供するようになる。

フルートとリコーダーのための協奏曲 Concerto for Traverso and Recorderホ短調 TWV 52:e1

1714年33歳、再婚したマリア・カテリーナとの間に9人の子どもを授かったが、彼女はギャンブルに熱中し、テレマンの年収を超える4400ライヒスターラーという莫大な負債を抱えた。ハンブルクの商人達の助けで、彼は破産を逃れ、1736年頃マリアはテレマンの家を出た。
1737年9月56歳 8か月間パリに滞在し四重奏曲集『パリ四重奏曲』と6曲のソナタ集を出版。その他、詩篇、協奏曲、カンタータなどを作曲、初演が大成功をおさめる。

『パリ四重奏曲』第12番
アンサンブル・バロッキン Ensemble Barockin'(2015年演奏)

裕福な市民層に対する作品の予約販売という方法が成功した。また市民向け音楽雑誌「忠実な楽長 」を刊行し、毎号新作楽譜を掲載し、必ず続きは次の号に載せ継続して購入させた。作風は当時の流行の先端であり、複雑で難解なバッハと対照的に演奏しやすかったことから多くの人に親しまれた。

1762年81歳 晩年、視力が悪化し、健康がかなり悪化したが、創作を続けた。
1767年6月25日86歳 直前まで作曲を行い、呼吸器疾患による衰弱のため亡くなる。

バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル(1714-1788)の名付け親であり、1750年にバッハが死去した際に彼の業績を最大限に称える追悼の言葉を送っている。
亡くなる直前に、長男アンドレアスの息子で孫のゲオルク・ミヒャエル(1748-1831)が代行していたハンブルクの音楽監督の後任として、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハを指名した。エマヌエルの死後はゲオルク・ミヒャエルが正式に後任の監督になった。

『マタイ受難曲 Matthaus Passion』


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