3月11日1921年【A.ピアソラ】

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アストル・ピアソラ
Astor Piazzolla

[作曲家・バンドネオン奏者/アルゼンチン]
1921年3月11日 – 1992年7月4日 71歳没
1995年にヴァイオリニストのG.クレーメル(1947‐)が『リベルタンゴ』を録音したCDが世界的に大ヒットし、現在もよく演奏されています。
作曲家、バンドネオン奏者として、アルゼンチンタンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させ独自の演奏形態の作品を産み出しました。


ピアソラ・ベスト・コレクション

『リベルタンゴ Libertango』


生涯

1921年 アルゼンチンのマル・デル・プラタにイタリア移民三世の子として生まれる。
1925年4歳 一家でニューヨークに移住し、15歳までを過ごす。
1931年10歳 ブロードウェイのラジオ局でバンドネオンのフォルクローレを録音し、以降ステージやラジオなどの演奏を行うようになる。
1932年11歳 初めての作品『42番街に向けて着実に』を作曲。
1937年16歳 アルゼンチンへ一家で移住。父の開いたレストランでバンドネオン、ハーモニカを演奏する。
1938年17歳 ラジオで聴いた先鋭タンゴ「エルビーノ・バルダーロ楽団」に感動して初めてタンゴの音楽性を知る。
1939年18歳 当時最先端だったトロイロ楽団に参加し、バンドネオン奏者として頭角を表す。
1940年19歳 A.ヒナステラ(1916-1983)に師事。その後5年に渡り音楽理論を学び、アカデミックな作品『ピアノ・ソナタ』を作曲した。
1944年23歳 トロイロ楽団を脱退後、自らの楽団を率いて活動を開始。古典的なタンゴの作・編曲やクラシック作品の作曲を主に行う。

1954年33歳 タンゴに限界を感じ、クラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリでナディア・ブーランジェ( 1887–1979)に師事する。
ナディアからピアソラの原点はあくまでタンゴだと指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚める。
1955年7月34歳 帰国。エレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成。前衛的な作風に保守的なタンゴファンから「タンゴの破壊者」と無攻撃を受け、楽団としては成功しなかった。
1958年37歳 新天地を求め、家族でニューヨークに移住。
1959年38歳 父の死に捧げた『アディオス・ノニーノ Adios Nonino』を作曲する。翌年初演し彼の代表作となる。

『アディオス・ノニーノ』


1960年39歳 バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成。
これ以後、1963年には新八重奏団、1971年-1972年九重奏団、1978年-1988年には後期五重奏団と、理想的な音楽編成を求めて数多くの楽団の結成・解体をくり返す。ピアソラの楽団に所属することはサッカー王国アルゼンチンでナショナルチームに所属することと同じほどの名誉だったとされる。

元来踊りのための伴奏音楽であるタンゴを、ピアソラはバロックやフーガといったクラシック音楽や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れ独自の音楽を生み出した。
「踊れないタンゴ」としてアルゼンチンタンゴの評論家からは批判されたが、クラシックや現代音楽の演奏家からは高い評価を得た。

1982年61歳 M.ロストロポーヴィチ(1927-2007)のためにチェロとピアノのための作品『ル・グラン・タンゴ Le Grand Tango』作曲。初演は1990年になってようやくロストロポーヴィチによって行われた。1995年にはヴァイオリニストのギドン・クレーメル(1947‐)が録音したCDが世界的に大ヒットした。

『ル・グラン・タンゴ』
チェロ:G.カピュソン(1981‐)
ピアノ:ユジャ・ワン(1987‐)

1988年66歳 心臓バイパス手術を受ける。その中でも傑作の数々を残した。
1990年68歳 パリの自宅で脳溢血により倒れ闘病生活に入る。
大統領専用機でアルゼンチンに帰国。
1992年7月4日71歳 ブエノスアイレスの病院で亡くなる。

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