1月31日1797年【F.シューベルト】

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フランツ・ペーター・シューベルト
Franz Peter Schubert

[ 作曲家 / オーストリア ]
1797年1月31日-1828年11月19日 31歳没

ベートーヴェンを尊敬し慕い、「歌曲の王」と呼ばれ、交響曲、ピアノ曲など、短い人生で多くの分野に名曲を残しました。

Franz Schubert by Wilhelm August Rieder 1875.jpg

「白鳥の歌」第4曲『セレナーデ』1828年
ペーター・シュライアー(1935-2019)

 

生涯

1797年 ウィーン北部リヒテンタールに教師でアマチュア音楽家の父のもとに生まれる。
6歳頃より、父からヴァイオリンの手ほどきを受け、楽才をあらわし、8歳でリテンタール教会の聖歌隊に入り歌唱法、オルガン、音楽理論など学ぶ。
1808年11歳 宮廷礼拝堂少年合唱団(のちのウィーン少年合唱団)の試験に合格し、宮廷寄宿制神学校に奨学金を得て入学。高い音楽教育と生涯の友を得た。
1810年13歳 『四手のためのピアノ幻想曲 D1』作曲。
1812年15歳 宮廷楽長のサリエリ(1750-1825)から特別に無料で作曲と通奏低音をその後4年間師事。変声期を迎え少年合唱団を退団し学業は継続。
1813年16歳 学校生活の最後には最初の交響曲 (D82)を作曲。
1814年17歳 父の学校の助教員となる。『ミサ曲第1番ヘ長調 D105』生家近くのリヒテンタール教会とアウグスティーナ教会でシューベルト指揮により演奏。初めての公開演奏となる。

『糸を紡ぐグレートヒェン』(1814年)
ソプラノ:ルチア・ポップ(1939-1993)

1815年18歳 歌曲『野ばら D257』『魔王 D.328』など、146曲の歌曲をはじめ、生涯で最も多くの作品200曲を作曲。

1816年19歳 音楽教師を辞め、作曲に専念するようになる。『交響曲第4番「悲劇的」D.417』『交響曲第5番 D485』や教会音楽を作曲。
シューベルトは貧しかったが、彼の音楽を評価する友人達が、彼の新作を演奏するサロンを開き「シューベルティアーデ」と呼ばれるようになった。

1822年 幻想曲『さすらい人 D760』『変イ長調ミサ曲 D678』作曲。10月より『交響曲第7番「未完成」D759』創作開始。
この頃、ウェーバー(1786-1826)、ベートーヴェン(1770-1827)と知りあう。ベートーヴェンはシューベルトの才能を認め、シューベルトもベートーヴェンを尊敬し、『フランスの歌による変奏曲 D.624)』献呈した。

交響曲第7番『未完成』
指揮:S.ラトル(1955‐)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1823年5月 入院。歌曲集『美しい水車屋の娘 D795』劇音楽『ロザムンデD.797』作曲

『アヴェ・マリア』1825年
ソプラノ:マリア・カラス(1923 – 1977)

1827年3月30歳 ベートーヴェンを見舞う。29日、26日に亡くなったベートヴェンの葬儀に松明持ちのひとりとして参列。
菩提樹を含む歌曲集『冬の旅 D.911』『4つの即興曲 D.899』『4つの即興曲 D.935』 など作曲。

『ピアノ三重奏第2番 D.929』1827年

 

1828年31歳 『交響曲第8番「グレート」』晩年の傑作である3曲のピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)を完成。3月26日ウィーン楽友協会主催のシューベルト作品のみの演奏会が大成功をおさめる。

1828年9月ごろから健康を害する。20歳のころより友人宅を渡り歩く生活だったが、最後は次兄のフェルディナントの家に転がり込んだ。

1828年11月19日31歳 午後3時、飲み水から腸チフスに感染し、兄フェルディナント、義妹ヨゼフに看取られ亡くなる。遺言によりヴェーリング墓地のベートーヴェンが眠る墓の近くに埋葬された。
1829歌曲集『白鳥の歌 D.957』出版。

1888年 市内改造に伴い、ヴェーリング墓地が廃止され、中央墓地の名誉地区に移葬され、ベート-ヴェン、モーツアルトに並んで眠る。
1976年よりオーストリアのホーエネムスで、世界屈指のシューベルト音楽祭「シューベルティアーデ音楽祭」が催されている。

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