12月8日1890年【B.マルティヌー】

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ボフスラフ・マルティヌー
Bohuslav Martinů

[作曲家/チェコ]
1890年12月8日 – 1959年8月28日 68歳没
ナチスを避けてアメリカに亡命したチェコ出身の作曲家。
6曲の交響曲を始め、様々な楽器のための30曲近くもの協奏曲、11作のオペラをはじめ、あらゆる分野で作曲を行うなど大変な多作家であった。


ボフスラフ・マルティヌー:初期管弦楽作品集 第1集

オペラ『ジュリエッタ』(1937年)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

生涯

1890年 ボヘミアとモラヴィアの境界付近の小さな村ポリチカ(現チェコ共和国)で靴屋を営む両親のもとに生まれる。
村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任された音楽好きの両親と共に、教会の鐘楼塔の中で生まれ育つ。
1897年7歳 近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けはじめる。楽才を表し、地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになる。
1902年12歳 弦楽四重奏曲を作曲。
1906年16歳 プラハ音楽院ヴァイオリン科に入学。その後オルガン科に移る。
1910年20歳 学校の許可無く音楽活動を行い音楽院を退学となる。
1912年22歳 故郷の小学校で教師を務める。第一次世界大戦(1914年7月28日-1918年11月11日)中は、歌曲、ピアノ組曲、音詩、バレエ作品、メロドラマなど、120の作品を作曲した。
1917年27歳 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となる。
1919年29歳 カンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてデビュー。
1923年33歳 C.ドビュッシー(1862-1918)に憧れ、奨学金を得てパリへ留学。
フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を受けた作品を作曲。また作品に故郷のチェコ民謡などをバロック調に仕上げた作品ピアノのための『3つのチェコ舞曲』を作曲した。
1938年48歳 ミュンヘン協定が締結され、その後二度と故郷チェコに戻ることは叶わなかった。
1940年50歳 彼の名がナチスのブラックリストに載ったことからパリを離れ、アメリカに亡命。
亡命中の厳しい状況の中でも、6曲作曲した『交響曲』のうち5曲、『ピアノのための幻想曲とトッカータ』、『シンフォニエッタ・ジョコーザ』、15の室内楽曲など多くの作品をのこし、アメリカに滞在した1940年代は彼の創作活動の頂点となった。

『交響曲第4番』(1945)
指揮:アンドレス・オロスコ=エストラーダ(1977-)
hr交響楽団(2016年演奏)

1946年56歳 クーセヴィツキー(1874-1951)から依頼され、バークシャー音楽センターの夏期講習の講師を務める。この際、宿舎のバルコニーから転落して重傷を負い、1ヶ月以上入院。退院後も頭痛、耳鳴り、難聴などの後遺症に悩まされた。
彼の心はいつも故郷のチェコスロヴァキアにあったが、終戦後1948年のチェコスロバキア政変で共産党政権が誕生し帰国を断念。アメリカのプリンストン大学での作曲の客員教授に就任した。

『シンフォニエッタ”ラ・ホッジャ”』(1950年)

1953年63歳 ヨーロッパに戻りニースに住み、祖国の思いを込めた作品に没頭した。
1956年66歳 ローマのアメリカアカデミーで教鞭を執る。
1957年67歳 ピアノ協奏曲第5番「協奏的幻想曲」 をマルグリット・ウェーバー( 1924-2001)の委嘱により作曲。

『ピアノ協奏曲第5番』
ピアノ:マルグリット・ウェーバー(1965年演奏)

1950年代の作品は創作第3期に分類され、常に新しい音楽表現を模索し、枠にとらわれない自由な作品を遺した。交響曲、バレエ曲、管弦楽曲、30曲近くの協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲、歌劇など多岐に渡る400もの作品を生み出した。
1958年68歳 末期がんにより胃の手術を受ける。
1959年8月28日68歳 スイスのバーゼル近郊のリースタルの病院で亡くなる。遺体は彼の遺言により、ザッハーが所有する森の一隅に葬られた。

1979年 遺灰が祖国へ帰る。慰霊祭では、『交響曲第6番』とカンタータ『泉開き』が演奏された。その後、前年に亡くなった夫人の眠るポリチカの聖ミヒャエル墓地の墓に納められたが、その墓石には『泉開き』の一節から “Jsem doma” (「われ、故郷にあり」)と刻まれた。

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