11月18日1860年【I.パデレフスキ】

クラシック音楽情報
音楽家の誕生日 一覧

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ
Ignacy Jan Paderewski

[ピアニスト・作曲家・政治家/ポーランド]
1860年11月18日 – 1941年6月29日 80歳没
ショパン演奏家として名を成し財を築き、ポーランド独立運動に尽くして共和国初代首相を務めました。
ショパン演奏を分かりやすく解説した楽譜『パデレフスキ版』ショパン全集を編纂し、現在も世界中で愛用されています。


闘うピアニスト パデレフスキ自伝 <上>

ショパン:英雄ポロネーズ
ピアノ:パデレフスキ

生涯

1860年11月18日 現在ウクライナ領となっているポドリア地方の寒村クルィウフカにポ―ランド貴族で経済学者の父のもとに生まれる。
母が彼を産んで数ヵ月後に逝去したため、遠い親族によって育てられた。
1872年12歳 幼年期から音楽に興味を示し、個人教師からピアノを学び、ワルシャワ音楽院に進学。
1878年18歳 音楽院卒業。母校のピアノ科で教師になる。
1880年20歳 アントニナ・コルサクヴナと結婚し、まもなくアルフレト が生まれた。
1881年21歳 長男の障害が判明(1901年に死去)。10月にアントニナ夫人が亡くなり、音楽に献身することを決意。ベルリンへ留学しその後ウィーン音楽院でレシェティツキに入門。
1885年25歳 シュトラウスブルク音楽院で教鞭を執る(-1886)。
1887年27歳 ウィーンでデビュー。

1889年29歳 パリのエラール・ホールでシリーズコンサートを開催。ピアニストとして華やかなデビューを飾り、翌年ロンドンでも大変な人気を集めた。1891年31歳 アメリカでも成功をおさめる。
当事の著名な音楽家たちと親交を結び、経験と人脈を築きあげ、世界的名声を得て、14ヵ月の間にアメリカとカナダで100回以上のコンサートを行うなど、精力的な演奏活動を行った。
1896年36歳 1回の演奏旅行で、当時のアメリカ大統領の年棒の3~5倍にもあたるギャラを得て、アメリカ合衆国でパデレフスキ財団を設立する。
これらの利益の一部を慈善事業に寄付し、財団や各種コンクールの設立にも投資した。

自身を“ピアニスト”ではなく、“芸術家”と名乗り、自分の演奏を余興のように聴かれることを嫌い、演奏中に客席で会話をする習慣が残る国や地域では、私語があれば演奏を中断することもあった。聴衆が演奏に集中するようになった今のコンサートのスタイルは、自分が作り出したものだ、とパデレフスキは自伝の中で回想している。
「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう」という名言を残したことがよく知られている。

1899年39歳 ドゥ・ローゼン男爵未亡人ヘレナ・グルスカと再婚。
多忙な演奏活動と疲労が重なり指を故障、スランプへと陥る。1900年以降はめったに人前で演奏せず、作曲家として活躍するようになり、夫婦で社会事業や寄附活動を積極的に行なった。
1908年48歳 祖国への愛国的賛辞として、演奏時間が70分を超える大作交響曲 ロ短調『ポーランド』Op.24などを作曲。
1910年50歳 ドイツ騎士団に対するポーランドの戦勝500周年を記念して、古都クラクフの住民にモニュメントを贈り、その除幕式において15万人の聴衆を前に演説を行った。その熱弁にポーランド中から集まった聴衆は熱狂し、感動して泣く者もいた。これを契機に作曲活動に終止符を打ち政治的活動を始める。
同年ショパン生誕100周年記念のモニュメントを建てる。


1913年53歳 アメリカ合衆国に居を構え、サンフランシスコに2000エーカーのブドウ畑を所有し、ワイン製造業を興す。

ポーランドがドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあった第1次世界大戦(1914年7月28日-1918年11月11日)中、パリの「ポーランド民族委員会」の活動家となる。
1915年55歳 フランス、イギリスを経て渡米。現地で様々なポーランド独立運動を支える。演奏会に合わせた300以上の集会を組織し、ポーランド人の自由獲得への戦いに対する支援を訴えた。彼の活動によりフランスのポーランド軍に、30,000人にも及ぶアメリカ人がボランティアで加担した。
また、ロンドンにおいてポーランド国民のための救済基金を設立するなど、その他の社会組織や政治組織を立ち上げる。
1917年57歳 パデレフスキはアメリカ大統領ウィルソン大統領に直接ポーランド問題に対する支援を説得し、ポーランド独立回復の必要性に関する声明文を提出した。それが決定打となり、1918年1月8日アメリカ大統領ウィルソンがアメリカ連邦議会で提唱した十四か条の平和原則に基づき、1918年11月 ユゼフ・ピウスツキ(1867-1935)を国家元首とするポーランド共和国(第二共和国)の独立を宣言。
1919年1月58歳 ポーランド第二共和国国家元首ピウスツキのもと、新生内閣において、首相と外務大臣を兼務(-1919年11月)。
同年 パリ講和会議にポーランドを代表して出席し、6月28日ヴェルサイユ条約に調印。
1919年12月9日59歳 首相の座を去り、1920年1月スイスのモルジュに転居。ポーランド国家評議会や国際連盟の代理人としてポーランドの代表役を務める。

1922年11月62歳 政界を引退し、カーネギーホールにおけるコンサートで、演奏活動に復帰。大成功をおさめる。
政治活動に専念した5年間、まったくピアノに触れず、弾きたいとも思わなかったという。しかし、経済上の理由で演奏活動を再開することになった時、これまで以上にピアノに愛着を感じ、さらに演奏が上達したと回顧している。
音楽活動に復帰してからも、若い作曲家支援など社会運動に積極的に関わった。
この頃からショパンの作品全曲の編纂にとりかかり、数年かけて完成した「パデレフスキ版」は、初期のショパンコンクールにおいて推奨され、現在も世界中の多くのピアノ教育者、ピアニストに愛用されている。


パデレフスキ編 ショパン全集 IX ワルツ


GTY01089319 パデレフスキー版 ショパン クリアファイル A5サイズ エチュード|ヤマハ

1926年66歳 ピウスツキによるクーデターの後、体制翼賛法案に反対する活動家となる。
1929年69歳 ヘレナ夫人が心の病から社会事業を続けられなくなり、1934年に亡くなる。
1936年76歳 反体制メンバーがスイスのパデレフスキの邸宅で署名を行う。

パデレフスキー:メヌエット(1937年演奏)

1939年12月79歳 ポーランド祖国防衛戦争(ポーランド9月作戦)の後に国政に復帰。彼のまとめていたスイス支部は政治的亡命者達の活動の拠点となる。
ロンドンにおいてポーランド亡命政府の指導者として、再びポーランド回復基金を発足。財源確保のため演奏活動を行なう。
1940年8月 パデレフスキは再びポーランドを救う道を探すべく渡米。

1941年6月29日午後11時80歳 渡米し祖国支援に全力を尽くしていている中、ニューヨークで生涯を閉じた。彼を称えて白鷲十字勲章、ポーランド復興十字勲章、ポーランド軍事功労十字勲章など多くの勲章が授けられた。
亡骸はアーリントン国立墓地に葬られたが、1992年にその遺灰がワルシャワに持ち帰られ、レフ・ヴァウェンサ大統領とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が列席する中、ワルシャワ聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に埋葬された。


パデレフスキ:ピアノ名曲集 – 横山幸雄/黒木雪音/藤田真央

1994年よりパデレフスキ音楽協会主催で「パデレフスキ国際ピアノコンクール」がポーランドのビドゴシチで開催され、2010年国際音楽コンクール世界連盟により正式に認定された。3年に一度、27歳以下の世界中のピアニストを対象に、パデレフスキの作品を選曲に組み入れることを課題とされる。

日本パデレフスキ協会

クラシック音楽情報LuckOn

関連記事

  1. 2月12日1923年【F.ゼフィレッリ】

  2. 12月8日1865年【J.シベリウス】

  3. 11月16日1895年【P.ヒンデミット】

にほんブログ村 クラシックブログへ

error: Content is protected !!