7月12日1925年【芥川 也寸志】

クラシック音楽情報LuckOn
音楽家の誕生日 一覧

芥川 也寸志
あくたがわ やすし

[ 作曲家・指揮者 / 日本 ]
1925(大正14)年7月12日-1989(平成)年1月31日 63歳没
名前から予想する通り、芥川龍之介(1892-1927)と関係深く、龍之介の三男坊です。龍之介が服毒自殺をした時、わずか2歳になったばかりでした。
大河ドラマ主題音楽や映画音楽、童謡、CMなど親しみやすい作品だけでなく、純粋なクラシック音楽作品もしっかり作曲し、多岐に渡る多くの作品を残しています。NHK「音楽の広場」「N響アワー」の司会など多くのテレビやラジオに出演し、茶の間に親しまれた存在でした。


芥川也寸志:交響曲第1番、交響三章

『交響3章』第3楽章(1948)

生涯

1925(大正14)年 芥川龍之介(1892-1927)の三男として東京市滝野川区(現・東京都北区)田端に生まれる。母である文の父は海軍少佐塚本善五郎。長兄は俳優・芥川比呂志。次兄は多加志(第二次世界大戦で25歳で戦死)。兄弟三人とも万葉仮名に当て命名された。
1927年7月24日2歳 龍之介が服毒自殺。
幼少時、父の遺品であるSPレコードを兄弟でよく聴いており、なかでもストラヴィンスキーの『火の鳥』『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊んだ。
1941年16歳 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を経て東京高等師範附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進学し、4年在学時に初めて音楽を志し、東京音楽学校予科作曲部を目指して井口基成に師事し、バイエルから猛勉強を始めた。母の文は也寸志のために自らのダイヤの指環を売り、ピアノの購入費に充てた。

1943年18歳 東京音楽学校予科作曲部に成績は下部だったが合格し入学。伊福部昭に師事し大きな影響を受けた。1学年上に團伊玖磨(1924-2001)がいた。
1944年10月19歳 学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊し、テナーサックスを担当。
1945年4月13日19歳 学徒兵として出征していた次兄・多加志がビルマのヤメセン地区で22歳で戦死。
同月、素人の養成機関であった軍楽隊を首席で卒業、教育総監の土肥原賢二中将から銀時計を賜る。同年8月終戦後、東京音楽学校に戻る。
1947年22歳 東京音楽学校本科を首席で卒業。
1948年2月22歳 東京音楽学校で知り合った山田紗織と結婚。(二女をもうけたが1957年離婚)
1949年23歳 東京音楽学校研究科を卒業。
1950年24歳 『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に團伊玖磨の作品と共に特選入賞を果たし出世作となる。
同年3月21日『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿(1898-1973)指揮で日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、大成功をおさめる。
1953年27歳 黛敏郎(1929-1997)、團伊玖磨(1924-2001)と共に「三人の会」を結成し、オーケストラ作品を主体とする自作を発表した。
同年『弦楽のための三楽章トリプティーク』がワルシャワ音楽祭作曲賞受賞。

『弦楽のための三楽章トリプティーク』

1954年28歳 国交がなかったソ連に、単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、自作の演奏会の機会を得る。楽譜が出版され、当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家となる。D.ショスタコーヴィチ(1906-1975)、A.ハチャトゥリアン(1903-1978)、D.カバレフスキー(1904-1987)らに出会う。
半年後に帰国した後、オーケストラ作品を中心に次々作品を発表し、「うたごえ運動」の指導者としても熱心に活動するなど、戦後の日本音楽界をリードした。

1956年30歳 アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成し、無給で育成に尽力した。
1958年6月16日31歳 京都の旅館にて映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川にストーカー行為をしていた京都大学医学部助教授夫人(35歳)が彼の部屋に乱入し、服毒自殺を遂げる。
1960年34歳 女優の草笛光子(1933-)と再婚。(1962年に離婚、その後3度目の結婚をしている)
1967年41歳 TBSラジオ『百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーを亡くなる前年まで務めた。
1970年44歳 エレクトーン奏者の江川真澄と3度目の結婚。
1976年50歳 1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を行う。当時としては画期で、その功績を讃えられ、翌年鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞。没後の1990年4月「芥川也寸志サントリー作曲賞」が創設された。
1977年51歳 NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子(1933-)とともに出演(-1984)。ほかにテレビ東京『木曜洋画劇場』などに出演。茶の間の人気を得た。
1978年52歳 第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞。

『八甲田山』より「終焉」

日本作曲家協議会会長、1981年からは日本音楽著作権協会理事長として音楽家の活動基盤の整備や、1982年以降は「反核・日本の音楽家たち」運動などに奔走し、ラジオ劇や100本以上の映画音楽を作曲、新交響楽団などアマチュアオーケストラの支援活動、ラジオ・テレビ番組出演、著作など、幅広い活動を行なった。「音楽はみんなのものである」と世に知らしめるために戦い、昭和を生き抜いた作曲家といえる。

1988(平成元)年6月61歳 健康診断を受けた際に進行した肺癌がみつかり手術治療を受け、退院後は北軽井沢の別荘で静養し作曲活動を続けた。11月に病状が悪化し再入院。
1989年1月31日63歳 入院先にて亡くなる。
逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったという。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。
没後、勲二等瑞宝章授章を追贈。


芥川也寸志 作品集

日本が誇る音楽家をわかりやすく紹介するシリーズ。

日本の音楽家を知るシリーズ 芥川 也寸志

クラシック音楽情報LuckOn

関連記事

  1. 10月1日1903年【V.ホロヴィッツ】

  2. 8月21日1698年【グァルネリ(デル・ジェズ)】

  3. 7月10日1969年【J.カウフマン】

にほんブログ村 クラシックブログへ

error: Content is protected !!